わたしのクリスマス

橋本 勲 神父

今日の心の糧イメージ

 宗教の世界では聖なる場所とか聖なる雰囲気など、よく「聖」ということばを使うことがあります。

 お寺とか神社の境内、大聖堂の中など、聖なる雰囲気が漂い、理屈抜きにありがたい気持ちになります。

 ですから、聖なるものはこの世界になくてはならない、とても尊いものです。

 ところで聖なる場所のことを聖域ともいいます。どちらも同じことなのですが、これに「化」という字がくっついて「聖域化」ということばになると、少々違った意味に使われることがあります。

 さらに、聖というとその反対側にあるものとして、「俗」ということばが使われるようになります。

 この世界を聖なる場所と俗なる場所に仕分けしていくのです。そしてその両者に具体的イメージをくっ付けて、ここは聖なる所、ここは俗なる所として、決め付けてしまうようになります。

 たとえば、失礼ですが、ジャラジャラと騒々しいパチンコ店や、酔っぱらって大騒ぎをする宴会の場などを聖なる場所とは言わないでしょう。まして、豚小屋、牛小屋は聖なる場所とは程遠いものです。このことにほとんどの方々は納得し、反対する人はいないのではないでしょうか。

 

 もし、異議を差し挟むお方がいるとすれば、それは、イエス・キリストご自身ではないかと思います。なぜなら、糞尿の匂いふんぷんたる馬小屋にお生まれになったというのですから。

 聖域に籠り、俗なる世界を勝手にでっち上げ、これを差別し、引きこもりの世界づくりに手を貸してはならない。馬小屋に眠る聖なる幼子は、安らかな寝顔でこんな強烈なメッセージを世界に向かって発信しているようでもあります。

 全世界に自らの聖なるいのちの息を吹き込むかのように。

わたしのクリスマス

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 数年前のクリスマスイブの夕方、わたしは右膝の十字靭帯を切り、医師に安静を言い渡された。クリスマスは、幼な子イエスのご誕生を祝う大きな喜びの日だった。しかしその晩は、ひとりぼっちで先行き不安な日となってしまった。

 部屋には幼な子イエスを飾っていた。いつしかわたしは、幼な子イエスがこの世に生まれるまでのことを辿っていた。

 マリアは大工のヨセフと婚約していた。おとめマリアに天使が現れ、神のおん独り子を身ごもることを承諾する時、マリアは1人で考え、「はい」と決断する。婚約者のヨセフは、マリアが身ごもっているのを知った時、苦しんだ。すると夢に天使が現れて、「マリアは聖霊によって神さまのおん子を宿された」と告げたので、ヨセフの深い霧は晴れた。

 しばらくして、ローマ皇帝アウグストゥスは、自分の全領土に人口調査を命じたため、マリアはヨセフとともにベツレヘムへと旅立つ。およそ120キロの旅だ。ベツレヘムに着くなり、マリアは産気づくが、どの宿屋も満員。馬小屋のみが空いていた。マリアは貧しい場所でイエスを産む。赤ん坊が生まれて幸せに包まれるのは束の間で、間もなく天使がヨセフの夢に現れ、「ヘロデ王が2歳以下の男の子を殺そうとしている」と告げられ、エジプトに逃避する。

 マリアとヨセフの人生は、イエスの母、イエスの養父となることを承諾した時から、富や名誉などから遠ざかっていく。すべてこの世的なものは取り去られていくのだ。最後に残るのは何だろう?

 愛そのものである幼な子イエス。

 赤ん坊のイエスだけはわたしを見捨てない。おさな子イエスを、「抱っこしてもいいですよ」と、マリアとヨセフの穏やかな声を聴く思いがした。


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