わたしのクリスマス

遠山 満 神父

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私にとって、最も思い出深いクリスマスは、大学3年生の時、初めてカトリック教会で与ったクリスマスミサです。

 それまでの私の大学生活は、道を求め続ける放浪の生活であったような気がします。

 大学時代のある時、先輩から下宿に呼ばれ、伺ってみると、仏教系の新興宗教への勧誘の話が始まりました。初め2人だったのが、いつの間にか部屋の中で6人の人達に囲まれ、10時から16時まで昼食を摂ることもなく、只ひたすら議論し続け、最終的に相手方も諦め、気まずい雰囲気の中で議論は物別れに終わりました。

 別のキリスト教の新興宗教のようなグループでは、3か月間教義を学んだ後、洗礼を勧められた為、別のプロテスタントの友人に相談したところ、3か月ではまだ早いのではないかと助言を受け、そのグループからも離れることとなりました。

 大学3年生のクリスマスの前には、あるプロテスタントの教会に通っておりましたが、クリスマスを前に、そこの牧師先生が突然異動になられ、気が動転していた時、同級生からカトリック教会のクリスマスミサに誘われました。私はその時初めて、永遠の命に至る道の出発点に立ったのだろうと思います。聖書の中に次の言葉があります。

 「牛は飼い主を知り、ロバは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない」。(イザヤ書1・3)家畜は飢えれば飼い葉桶の所に来るのに、イスラエルの民は心に飢えを感じても、私の所に来てくれないという神様の嘆きが書かれています。

 私は大学時代、心に飢えを感じながら彷徨い、最終的に、飼い葉桶に寝かされているメシア、ご自分を与えて私達を生かして下さる方の所に導かれたような気がします。

わたしのクリスマス

服部 剛

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私は今、クリスマスの聖夜の意味を改めて考えています。

 およそ2000年前に生まれたイエス・キリストという方の存在を心から信じるなら、深い希望となるだろうと、私はひとり、瞳を閉じて思いを馳せます。そして、時を越えて闇の中に響く幼子の産声が聴こえたならば、その人の日々が新たにされる密かな合図となることでしょう。

 クリスマスで思い出す場面は、子供の頃に行われたパーティーでのプレゼント交換です。友達と輪になり、皆で「ジングルベル」の曲を歌い終わったところで互いにプレゼントを渡すという、ワクワクする雰囲気。大人になった今でも懐かしく記憶に残っています。最近、私はクリスマスのみならず、日々を「ささやかなプレゼント交換」と思って生きることはできないものか、と考えます。その日出会う誰かへの、例えば小さな声かけや親切な行為が、そっと手渡される素朴な贈り物となれば、心が曇るような日でも、ろうそくの火のような明かりをその人の胸に灯すことができるのではないかと信じたいのです。

 ヨハネによる福音書の第1章には、〈言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている〉と記されています。(4~5)私はこの箇所を読むと、聖なる夜、馬小屋で幼子イエスが産まれた場面と重なるように感じます。それと同時に、この世に来られたイエスは「闇に輝く光」として、はるかなる過去から存在していたことを、福音史家ヨハネは語っています。

 聖夜、自分の中に神のひとり子がお生まれになったことを知るなら、そして気づくのです。〈私自身の存在も世界でたった1人の贈り物なのだ〉と。


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