わたしのクリスマス

服部 剛

今日の心の糧イメージ

私は今、クリスマスの聖夜の意味を改めて考えています。

 およそ2000年前に生まれたイエス・キリストという方の存在を心から信じるなら、深い希望となるだろうと、私はひとり、瞳を閉じて思いを馳せます。そして、時を越えて闇の中に響く幼子の産声が聴こえたならば、その人の日々が新たにされる密かな合図となることでしょう。

 クリスマスで思い出す場面は、子供の頃に行われたパーティーでのプレゼント交換です。友達と輪になり、皆で「ジングルベル」の曲を歌い終わったところで互いにプレゼントを渡すという、ワクワクする雰囲気。大人になった今でも懐かしく記憶に残っています。最近、私はクリスマスのみならず、日々を「ささやかなプレゼント交換」と思って生きることはできないものか、と考えます。その日出会う誰かへの、例えば小さな声かけや親切な行為が、そっと手渡される素朴な贈り物となれば、心が曇るような日でも、ろうそくの火のような明かりをその人の胸に灯すことができるのではないかと信じたいのです。

 ヨハネによる福音書の第1章には、〈言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている〉と記されています。(4~5)私はこの箇所を読むと、聖なる夜、馬小屋で幼子イエスが産まれた場面と重なるように感じます。それと同時に、この世に来られたイエスは「闇に輝く光」として、はるかなる過去から存在していたことを、福音史家ヨハネは語っています。

 聖夜、自分の中に神のひとり子がお生まれになったことを知るなら、そして気づくのです。〈私自身の存在も世界でたった1人の贈り物なのだ〉と。

わたしのクリスマス

岡野 絵里子

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買い物客で賑わう街、教会に集まる人々の静かな祈り・・様々なクリスマスの光景が甦る。思い出に残っている人々もいる。

 夫がアメリカの大学で研究職に就き、家族で滞在していたことがある。アメリカの職場らしく、夫が所属する研究室でも、家族ぐるみのホームパーティがよくひらかれていた。

 或る年のクリスマスのこと。料理を1品ずつ持ち寄るランチパーティーが計画され、場所は大学医学部の建物の1室になった。そしてその部屋に、全く別の研究室に属する研究者が1人いたのである。

 彼は薬品の染みのついた白衣を着たまま何気なく、私が作った太巻き寿司を食べていた。同僚たちの好きなビーフに、卵や野菜を彩り良く巻いたもので、かなりの量があったが、見る見るうちに減っていく。彼は気が済むまで食べ、更に白衣のポケットにさりげなく太巻きのいくつかを入れて、幸福そうに去って行った。聞けば、彼は日本食が大好きなので、日本人がいて日本食が食べられそうなパーティにやって来たのだとのこと。初めは呆れていた私だったが、部外者を受け入れて、いつになく楽しそうな同僚たちの姿に、はっとした。これこそクリスマスなのだった。

 クリスマスには、心をあける特別なことが起こる。お生まれになった幼子イエスに会いに来たのは、遥か異国の博士たちだったではないか。思いがけない人々の心と出会い、私たち自身もひらかれていく時なのだ。普段は業績を競い合う研究室の間にある高い壁は、この日は存在しなかった。自分の料理を喜んでもらえて、実は私も嬉しく、心がひらかれるように感じていたのだ。彼は少し風変わりな方法で、クリスマスのよき贈り物を私たちに置いていってくれたのだった。


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