仮に、眠ってしまったとしても、その子にとっては無駄なことではなかったと思うんです。親と一緒にクリスマスの深夜ミサに行った、兄弟姉妹で一緒に歌った、踊ったなど、大きくなって、たとえ、嫌な苦い経験であったかもしれないけど、長い人生の中では、いいことにつながっていきます。これが「生きている」ことの意味ではないでしょうか。だから、親子連れでミサに参加し、共に祈ることは、親子の財産であると思います。「祈る」ことを親の仕草、姿を通して子どもたちは会得していきます。これこそ、立派な「信仰教育」ではないのかなと常々思っています。
「干渉する」という言葉はそれ自体いい響きを感じませんが、「関心がある」からこそ干渉したくなってくるのでしょう。大人の干渉によって、子どもが不愉快になってしまうことはよくある話ですが、それでも、あとで思えばプラスに働いています。
わたしのあの時のクリスマスは、まさにこれでした。人前で注目されることが嫌だった私が、みなの前で剣舞をするように命令されたのです。おいしいはずのケーキ等も味を覚えていません。それが今、力になっているのです。
神のみぞご存知です。