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わたしのクリスマス

小川 靖忠 神父

今日の心の糧イメージ

 わたしにとっての最初のクリスマスの体験は、小学校2年生の時でした。その時であったかどうか記憶は定かではありませんが、嫌な不愉快なクリスマスだったことを覚えています。

 あの頃は、教会でのキリスト降誕ミサが夜中の11時30分からでした。子どもたちもたくさん参加していましたが、その多くは寝てしまい、わたしも、祭壇で侍者をしながら眠ってしまっていたなということを覚えています。そのような時はいつも、母親はハラハラドキドキしていたそうです。あとで、高校生の頃でしたか、聞かせてくれました。

 仮に、眠ってしまったとしても、その子にとっては無駄なことではなかったと思うんです。親と一緒にクリスマスの深夜ミサに行った、兄弟姉妹で一緒に歌った、踊ったなど、大きくなって、たとえ、嫌な苦い経験であったかもしれないけど、長い人生の中では、いいことにつながっていきます。これが「生きている」ことの意味ではないでしょうか。だから、親子連れでミサに参加し、共に祈ることは、親子の財産であると思います。「祈る」ことを親の仕草、姿を通して子どもたちは会得していきます。これこそ、立派な「信仰教育」ではないのかなと常々思っています。

 「干渉する」という言葉はそれ自体いい響きを感じませんが、「関心がある」からこそ干渉したくなってくるのでしょう。大人の干渉によって、子どもが不愉快になってしまうことはよくある話ですが、それでも、あとで思えばプラスに働いています。

 わたしのあの時のクリスマスは、まさにこれでした。人前で注目されることが嫌だった私が、みなの前で剣舞をするように命令されたのです。おいしいはずのケーキ等も味を覚えていません。それが今、力になっているのです。

 神のみぞご存知です。