分岐点

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

「人生の分岐点」とまではいかなくても、私たちは、毎日、何等かの「分岐点」に立たされています。

私も、歳と共に、いろいろな経験を重ね、最近は、無謀な行動をしなくなった自分を感じています。聖書の中に、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19)とあります。このマリアの姿勢は、私たちに、日常の中の分岐点にもっと敏感に、意識して立つ方法を示してくれると思います。

例えば、日々の人間関係の中で、私たちは相手に腹を立てたり、傷ついたりすることがあります。その場合、どのように自分の気持に対峙し、相手と関わりを続けることができるでしょうか。とっさに相手に感情をぶちまけることもできますが、おそらく相手を傷つけ、自分にも後味の悪さが残り、賢い選択肢とは言えないでしょう。しかし、怒りや傷ついた自分の気持を「心に納め」、「思いめぐらす」ことで、自分の状態を客観的に捉え、考える余裕が与えられ、より良い選択ができるのではないでしょうか。その結果、相手には何も言わないという選択もできますし、相手に真実を告げて、より深い関係を築くチャンスにすることもできます。

私たちは、過去の経験から多くを学んで慎重になり、ほとんど意識せずに安易な道を選んでいるようにも感じますが、日々、真剣により良い方を選んで生きることができるなら、自分の人生も、周りの世界ももっと変えられるのではないでしょうか。

つまり、分岐点で迷う時、迷いという心の状況に振り回されるのではなく、マリアのように「心に納め」、神の霊の働きを信じて「思い巡らす」ことによって、より良い道に進むことができるのだと思います。

分岐点

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

順調に歩んできた道が行き止まりになって左右に分かれ続いています。どちらへ行けば目的地なのでしょう。今はスマホのマップで迷うことはなくなりましたが、分岐点で道に迷う事は誰もが経験しているでしょう。

これが道ではなく人生の分岐点となると、一般的ではなくなります。生まれた時からレールが敷かれていて素直にレールに沿って人生の終着駅まで行ってしまう人がいます。傍から見ていると紆余曲折がありそうでも、本人は分岐点とは思わず適当に角を回って、何となく要領よく生きていける人もいます。人生での分岐点となると重い響きがあり、進学、就職、結婚、転居などがイメージされますが、日常生活での思いがけない出来事にこそ、人生を大きく変えるきっかけが潜んでいます。そして人生を振り返ってみた時、その出来事こそが分岐点だったと気付かされます。

私自身、進学や結婚には選択肢がありましたが、自己責任で決意したので、今振り返ると大した分岐点ではありませんでした。私が人生の分岐点であったと合点する出来事は3回あるのですが、不思議にも必ず神の御手を確信する体験でした。

神様のご計画としか思えないような偶然の出会いや、突然呼び出されての旅行、何気なく手に取った本のメッセージに何度共に居て下さる神様を感じたことでしょうか。分岐点の一つが「鎌倉のキリシタン」の殉教の歴史画の完成です。

ある深夜のアトリエでの体験を、神父様にお話ししたところ、10年後、画集の出版に際し「神の絵筆」と題名をつけてくださいました。心のともしびの原稿執筆者に加えて頂いた事も分岐点でしたので、古稀の記念画集は「絵筆が灯す光」と命名しました。


前の2件 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13