しかし心は収まらないらしく、会うたびに仕事がきついと嘆くようになりました。
「いまは道が閉ざされた気持ちでしょうけれど、神様から見込まれてここにとどまることになったのかもしれません」と慰めてみましたが、無念は晴れないようでした。
本当の選択は、分岐点で道を決めるときよりも、その道を進み始めてからなのかもしれません。
私は語学が好きで、翻訳とエッセイの道に進みました。でもピアノの勉強も諦められず、音大を目指すべきだったか迷った時期があります。音楽を仕事にすればいまとは違う経験ができたでしょう。
しかしいまは、語学から広がった世界は私のために用意されていたものだと思っています。日本で最初の全盲の仏文科学生として上智大学に入り、言葉の道を選択できたことは、神様のゴーサインだったと。なぜなら、本道でないはずの音楽の門も閉ざされず、勉強と演奏活動が続けられたからです。
分岐点で本道として選べる道は一つだけですが、ほかのすべての門戸が閉ざされるわけではありません。そのときは脇道になっても、深めていけば大きく開けていくのだと感じます。あの駅員さんにも、本当に適した何かが用意されていると、私は信じています。
進学ならば、何を勉強したいのかはっきりさせる必要があるでしょう。就職ならば、それが自分の生きがい、働きがいになるのかを知ることです。結婚の場合だと、好きで愛しているという感情だけでなく、相手との相性を充分考慮する必要があるでしょう。このように、自分の適性をよく知り、できる限り自分の適性に合った道を選ぶならば、途中、いろいろな困難や試練があっても、すべて前向きに受け止めて前進していくことができるでしょう。
私は、若いときに出版の仕事をしていました、仕事は面白く、楽しかったです。しかし、自分の将来は、神父になって、教育の仕事に携わり、出版の活動をすることだと考えていました。そうしたら、現実にそのとおりになりました。現在、私は神父です。そして、大学の教員として、退職後のいまも教えています。その上、時々、書物を出版する活動をしています。