次にマザー・テレサを思い浮かべる。
マザー・テレサも列車の中で神さまのお声をお聞きし、貧しい人のために一生を捧げようと決心した。
私の知るシスターは、少女の頃、カトリックの幼友だちについて行って、地元の教会へ初めて入った。シスターの生家は仏教徒だったのである。
その教会でシスターは世にも不思議な体験をした。
幼いイエズスさまを抱かれたマリアさまの御像が、突然歩いてシスターの傍に来られた。そして、イエズスさまを腕の中に入れてくださった。しばらく、あたたかく柔らかいイエズスさまを夢見心地で抱かせていただいた。
その後、マリアさまはイエズスさまを抱かれて、元の場所へ帰られたという。
シスターはその経験からミッション系の学校へ進学し、成人してシスターになった。
神さまから分岐点を示されたからである。
大きな権力を持ちながらも、異なった選択をした人もいます。イスラエルの王として著名なダビデです。彼は、自らの弱さに負け、姦淫の罪を犯してしまいます。ここまでは普通の人と同じですが、ダビデの場合、この罪を犯した後、自分の権力を用いて罪を隠蔽しようとします。それに気づいた預言者ナタンは、ダビデをきつく叱責します。この時のダビデの反応は印象的です。「私は主に罪を犯した」。(サムエル記下12・13)彼ほどの立場にいれば、真理を語ったナタンを亡き者にして、自分の立場を守ることもできたはずです。けれどもダビデは、自らの過ちを認め、真理の前に跪きました。その後、ダビデ王は悔い改め、イスラエルの中で最も偉大な王となりました。
私達の人生にも、同様の事があると思います。真理の鏡が真理を示した時、その前で跪く事ができるか否か、それが幸福に至るか否かの分岐点になるのではないでしょうか。