私はその時、周囲の女の子たちから、自分がすっと離れていくのを感じた。まるで目に見えない分かれ道があって、1人だけ別の道を歩き始めたような具合だった。その道は、女の子たちがいる楽しげな道とは違って、暗く険しい。人の悲しみを通る道だった。それが分かった。自分のような未熟者には何も出来ないかもしれない、でもこの道を知っているからには、この道を歩くという気持ちが湧いた。不思議な瞬間だったと思う。
生きる悲しみは長く続くこと、だが、幸福が思いがけない姿で、道々に待っていることなど、その頃は、まだ分かっていなかった。
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、彼らは瞬時に網も舟も捨てて、主に従いました。(ルカ5・10~11)神の国への分岐点が、主の手によって、向こうからこちらへ、伸びてきているようです。それでも、普通の人々ならどうしたものか、迷うところです。事実、別の人は主に「まず、家族にいとまごいに行かせて下さい、それから従います」と頼んだところ、主から「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」とまで言われています。(ルカ9・61~62)
人として生きる上で生じる様々な分岐点は、自分と社会の間で誠実に、時間をかけて選んでいいのでしょうが、主が何かせっかちに仰っているように見えるのは、神の国はもう「すでに来た」と仰りたいからです。そして、私達はその神の国の道を歩まなければならないと仰りたいからなのです。
こうして、年を重ねている私達夫婦も、ペトロの後継者、教皇フランシスコの絶えざる呼びかけに少しでも応じ、不幸な、見放された人々のために、まだ出来る仕事の報酬からの幾ばくかを送りたいと思うのです。それは、残された天国への道すがらの小さな分岐点なのです。