分岐点

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

20代の頃、勤めの帰りに料理教室へ通っていた。花嫁修業などと言う言葉が生きていた時代で、若い女の子たちは1日の仕事の後で疲れていたが、すぐ仲良くなり、一緒に料理を習って、出来上がったものを食べるのを楽しんでいた。

その中に、1人の年配の女性がいたのである。服装も物腰も洗練されているとは言えず、本人は楽しそうなのだが、周囲からは浮いた存在だった。そしてこの人は、自分の料理を嬉しそうにタッパーに詰めて持ち帰るのである。

或る日、隣にいた女の子が眉をひそめて言った。「あの人、いつも食べないの。食事して電車に乗ると気持ち悪くなるんだって。嫌よねえ」。私はびっくりした。私はその人の行動に、むしろ感動していたのである。恐らくその人は、料理教室の洒落た美味しい料理を、家で待っている誰かに食べさせていたのだ。自分の夕食がなくて、空腹に胃が痛くなっても、それが彼女の幸福なのである。電車で気持ちが悪くなるなどとは、彼女なりの穏やかな嘘なのだ。

私はその時、周囲の女の子たちから、自分がすっと離れていくのを感じた。まるで目に見えない分かれ道があって、1人だけ別の道を歩き始めたような具合だった。その道は、女の子たちがいる楽しげな道とは違って、暗く険しい。人の悲しみを通る道だった。それが分かった。自分のような未熟者には何も出来ないかもしれない、でもこの道を知っているからには、この道を歩くという気持ちが湧いた。不思議な瞬間だったと思う。

生きる悲しみは長く続くこと、だが、幸福が思いがけない姿で、道々に待っていることなど、その頃は、まだ分かっていなかった。

分岐点

黒岩 英臣

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私に指揮を習いに来ていた、女性合唱指揮者がいらっしゃいました。数年前、その方は、家族で丹沢に登山中、皆が休む時、もう少し先まで1人で行くと言って、そのまま行方不明になってしまったのです。山道の分岐点を見失ったのか、夜になり、朝になりで、捜索隊に発見された時にはすでに亡くなっていたのでした。私にも悲しい出来事でした。

さて、気を取り直して、聖書の世界を覗いてみましょう。ガリラヤ湖で漁をしていたシモン・ペトロたちに、分岐点というような、至極尤もな立ち位置はあったでしょうか。

「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、彼らは瞬時に網も舟も捨てて、主に従いました。(ルカ5・10~11)神の国への分岐点が、主の手によって、向こうからこちらへ、伸びてきているようです。それでも、普通の人々ならどうしたものか、迷うところです。事実、別の人は主に「まず、家族にいとまごいに行かせて下さい、それから従います」と頼んだところ、主から「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」とまで言われています。(ルカ9・61~62)

人として生きる上で生じる様々な分岐点は、自分と社会の間で誠実に、時間をかけて選んでいいのでしょうが、主が何かせっかちに仰っているように見えるのは、神の国はもう「すでに来た」と仰りたいからです。そして、私達はその神の国の道を歩まなければならないと仰りたいからなのです。

こうして、年を重ねている私達夫婦も、ペトロの後継者、教皇フランシスコの絶えざる呼びかけに少しでも応じ、不幸な、見放された人々のために、まだ出来る仕事の報酬からの幾ばくかを送りたいと思うのです。それは、残された天国への道すがらの小さな分岐点なのです。


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