分岐点

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

ふと気が付くと、カトリックの神父になって25年、年齢も50歳代に入っていました。心はまだまだ若いつもりですが、無理がきかない身体になってきています。

今までの歩みを少し振り返ってみると、さまざまな人生の「分岐点」が見つかりました。

幼少期に病弱で、名医と言われる先生の近所に引っ越したこと。小学校への1日入学で、あこがれの先生と出会ったこと。中学受験の抽選で落選し、考えてもみなかったカトリックの学校に入学したこと。多感な高校生の頃、時の教皇ヨハネ・パウロ2世が来日され大きな感銘を受け、不思議と自らが洗礼のお恵みへと導かれたこと。尊敬していた神父様のお通夜の席で、司祭への道を考え始めたこと等々です。

その後も数々の出会いときっかけがあり、私自身の人生の「分岐点」がありました。たいていは、思いもかけない出会い、出来事があり、今まで考えもしなかった場所で、ご奉仕させていただくことになったのです。

私の先生だったある神父様は、次のようによくおっしゃっていました。「人生には様々な曲がり角があり、そこにいつも神さまが待ち伏せておられるのだ」と。

今までの人生の「分岐点」には、神さまが待ち伏せておられ、その見えない手をもって、私を導いてくださったことになります。

これから、どれだけこの世の人生があるか分かりませんが、おそらく、数々の分岐点に直面していくことでしょう。そんな分岐点には、必ず神さまが待ち伏せておられ、私を導き続けてくださるのでしょう。

人間1人1人をお創りになった神さまは、いつも、そして特に、人生の分岐点で私たちを支え、力強く導いてくださるのです。その御手に自分自身を委ねていきたいものです。

分岐点

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

私にとって人生最大の分岐点となったのは、大学生の時のカトリック受洗です。

自分中心の生き方から、神と隣人に目を向けたキリスト中心の生き方へ、大転換をしたと言ってよいかもしれません。

洗礼を受けた理由は、うまく説明できないのですが、自分に何かの功徳があったからではなく、人生に行き詰っていたわけでもありません。振り返ってみると、様々な出来事や導きから、神と自分を知ることができたから。そして、自分のために祈ってくださっている方々がいたからだと考えています。

『長崎の鐘』『この子を残して』などの著書でも知られる永井隆博士もそうでした。学生の時、彼は無神論者だったのですが、パスカルの『パンセ』や母親の臨終に立ち会った経験などから、次第に神の存在を認め始めます。

そして下宿先の森山家の人々によって、神への生きた信仰の在り方も教えられました。

 

神とその教えを知り始めると、永井さんは自分をより深く謙虚に見つめ出しました。

 

一方で、そんな永井さんのために信仰の恵みがさずかるように、毎日人知れず祈りを捧げている人たちがいたのです。後に妻となった緑さんもその1人でした。

神を知る。自分を知る。そして祈る。順番は違ってもこの3つが、洗礼の恵みを受ける人の道程にあります。

洗礼の秘跡によって、人は原罪と自罪、及びその罰が完全に赦され、天国に入る権利とその他の秘跡を受ける権利もいただけます。ですから、信者にとって洗礼は最高の恵みであり、家族や親しい友人のためにも願うものです。

私もまた、この素晴らしい恵みをまだいただいていない方のために、神の道具となり、導き、祈る働きをしていければと思っています。


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