ところで、人間の生活圏は地球上に限らず、宇宙にまで広がり、宇宙は全人類の課題、関心事となっています。エコロジーに対する人類の責務は重く、その影響は、後世、子々孫々にまで及ぶものであり、我々が依存するテクノロジーに対する倫理と人権の優位、より優れた高い立脚点が確立されねばなりません。また、科学・技術の活用に際して、これをもたらした人間の才能、人材の功績に対して高い評価と尊敬の念を表せねばなりません。
科学と無関係あるいは両立可能とする信仰の課題に触れると、神は自然の中に臨在していると考えるのではなく、自然は、全能の創造主たる神から人類へ贈られた賜物とわたしは考えます。人々の生活スタイルは、それぞれ、個人的にも社会的にも、異なりますが、経済的には、無駄を廃し節約を旨とするのは共通、共有の意識であり、課題であります。仕放題の消費に陥ることなく、万人の需要を満たす適正な生産を常に期待しますが、これが神のみ旨であると信じます。
その極めつきを1つご紹介したいと思います。別に自慢話でするわけではありません。ある夏の昼過ぎ、友人と2人で5合目の峠の茶屋にいました。そこから富士の頂上を見たとき、手の届くような近くに感じたので、友人とここから頂上に登ろうかと言いました。登山道のない、火山灰が固まって岩になっているところにしがみつきながら、一歩一歩登っていきました。目の前に剣ヶ峰が見えるのに、なかなか着きません。友人とはだいぶ離れ、わたし独りになりました。午前中あんなに晴れていたのに、午後になると富士山の頂上の近くは厚い雲に覆われてきます。方角がわからないので、困り、必死に神さま助けてくださいと祈りました。すると、晴れ間が現れ、登ることができました。こうして2時に出発したわたしは、5時に頂上に着きました。友人は1時間遅れて到着しました。
頂上に腰掛けて、下に見える雲海や下界を眺めていると、ある宣教師が言った、「山に真理がある」ということを実感しました。