自然とわたし

服部 剛

今日の心の糧イメージ

月刊誌『カトリック生活』で私が詩の連載を始めて、およそ1年半になります。編集長の関谷義樹神父様が撮影された雄大で鮮やかな大自然の写真に私の詩を添えた見開きのカラーページです。私はいつも読者の方々が黙想するような心地でその誌面を見て、読んでいただけたらーーと密かに願っています。

今まで連載された写真を思い返しても、すべてが印象に残るものばかりです。溢れるような陽の光の射す雪原、草原の向こうから注がれる優しい夕陽、山から眺める眼下の森と鏡のような泉。ダイナミックなものであったり、郷愁を覚える懐かしい風景であったり、まるで神が壮大な自然を通して私たちに何かを語りかけているような、創造的なメッセージを放っています。そのような写真を見ていると〈人は自然を通じて神の心に触れる感性を持てるのだな〉という実感が、しみじみと私の胸を打つのです。

以前、聖地巡礼の旅から帰った友から、生前のイエスが人々を集めて語ったというガリラヤ湖の畔の写真を見せてもらいました。湖面はとても穏やかで、日光が優しく反射し、周囲の色とりどりの花はそよ風に揺れているかのようです。その写真から、人々と自然を愛したイエスは私たちと変わらぬ感性を持つ方だったと信じられます。もちろん自然といっても癒しの対象ばかりでなく、雷や地震など厳しい面もありますが、その両面こそが私たちの人生と似ており、そこに人知を越えた神そのものがおられるのでは、と感じます。

ガリラヤ湖の畔に立つイエスのまなざしを静かに思い、その深く澄んだ瞳をみつめ、信頼するとき、きっと私たち一人ひとりにふさわしい日々は準備されている、という安らぎを覚えるのです。

自然とわたし

古川 利雅 神父

今日の心の糧イメージ

「自然とわたし」。この言葉から皆さんはどんなことを思われるでしょう。私は高校生の頃、毎年ゴールデンウイークに、箱根の山にキャンプに行っていたことを思い出しました。

夜10時頃、箱根の駅を出発、山に入って数時間歩き、尾根道の平らな所で宿泊。真っ暗な山道の途中で急に視界が開け、湘南の海岸線沿いに広がる家々の灯りが見え綺麗でしたね。早朝からは鳥のさえずりが聞こえ、心を和ませてくれました。

山には食料も水も持っていきますが、水を汲める場所がないので、どれ位水を持っていくか、いつも悩んだものでした。沢山なら荷物は重くなり、少しだと足りなくなって困りますから。そして山で鳥の声を聞くと、どこで水を飲むのかなと普段考えないことを考えたものです。自分が生きるのに必要な水を意識して初めて、他の生き物にも思いを向けたのでしょう。

また急に辺りを霧が立ち込めて、歩く道が見えなくなったりすると、自分という存在が何と小さな存在なのだろうと考えてしまいます。目の前の雄大な景色の前にたたずんでいると、見とれて時間など忘れてしまいそうになりますね。

私たちが都会の雑踏を離れ、自然の中に身を置くとき、自然を創られたお方はどなたなのか、私たち人間を遥かに超えた方が何かをなさっておられる。そんなことを思い巡らす、感じる、その様な時となる様に思います。もちろん1人1人、思い方、感じ方は違うでしょうが...。

慌ただしい生活を送っておられるあなた、そこから離れて、自然の中にしばし身を置いて、自然と触れ合っては如何でしょう。新たな発見、出会いなどを通して、身も心も新たにされリフレッシュされ、歩んでゆく力を得ることができるでしょう。


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