自然とわたし

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

私はクレソンというほろ苦い野菜が好きで、居間の隅にガラスケースを置いて栽培している。きれいな水に浸したスポンジに種を播き、小さな芽の成長を見守るのは楽しい。ほっそりとしていた茎が逞しくなり、沢山の葉をつけ、やがて深緑の小さな森が水辺に生まれる。

ただそこに緑の植物が育っているだけで、その一画の空気は清くなり、明るく澄んでいくようだ。水と陽の光だけで育つ慎ましい植物が、そんな力を持っているのである。

人が孤独であったり、つらい体験をしたりして心が傷ついている時、動物を飼ったり、植物を育てたりすると、癒されることがある。私も、悩み疲れてしまったような日、植木や花々の世話をすると、心が慰められ、潤ってくることがある。そんな時は、私自身の中で萎れそうになっている花々もまた水を注がれ、光を与えられて、ほんの少し生き返るのかもしれない。草花を育て生かしているつもりで、いつの間にか自分が生かされているのである。

自然と共にいる時、私たちは人間も自然の一部であることを思い出す。自分を忘れ、自然の中の放つ明るい光に触れていると、素朴な喜びが湧いて来る。それは私たちもまた光を宿す生き物だからだ。人の中にある光は、自然の光と呼び合い、またお互いを照らし合う。私を生かしてくれるのは、そんな風に助け合って生きる生命たちだ。そして一茎の草の中に、そして人の中にあって、静かに照らしてくれる清らかな光である。

自然とわたし

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

私は学生の頃、山が好きで、時折り仲間たちと北アルプスとか、八ヶ岳に出かけたものでした。日本の自然は木々の緑が滴るように豊かで、草原には花が一面に咲き誇っていて、実に瑞々しいものでした。

後年、憧れていたスイスのアイガー北壁を眼前にするクライネシャイデックに立つことができましたし、さらに後には、イタリアのドロミティ山塊の至宝、サン・マルティーノにも行けました。何とも美しかったです。

しかし、これらの絶景がどれほど私の心を揺さぶったとしても、それはやはり、私の心から愛する神の美しさのほんの片鱗を、どうにかうかがわせるだけだと言えます。私の目に、偉大な、それでいながらやさしい神の衣のすその、そのまた一番端のところを垣間見せてくれるに留まっているのです。ですから、詩編の一節のように主の家の庭は何と美しいことか、それを思って私の心は絶え入るばかり・・と歌うのも尤もだと思うのです。(参:84・2~3)

ところで、イエス・キリストが福音、即ち神の国の訪れを述べ伝えられた地域は、主としてイスラエルの北の方、ガリラヤ湖の周辺だったようで、このあたりですと、南のシナイ半島に近い地方とは違って、自然も豊かで、木々や草花に恵まれているようです。

そこで、主イエスは折にふれて、手近な自然を用いて、人々に神のことを話されたのです。例えば、「空の鳥を見なさい、種も蒔かず刈り入れもしないのに天の父は鳥を養って下さる。野の花を見なさい、働きも紡ぎもしない。言っておくが、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。だからあなた達はまず神の国を求めなさい。あなた達に必要なものは、すべて天の父がご存知である」と。(参:マタイ6・26~33)


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