他方、自然は、様々な醜い要素も併せ持っております。例えば、動物の世界の弱肉強食の在り方は、私たち人間が決して見習うべきものではありません。また、地震や津波、豪雨などは、私たちにとって脅威となります。そういう意味で自然は、私たち人間が、神格化する対象ではなく、むしろ共に生きる仲間だと考えます。共に長所と欠点を併せ持ちながら、救いの日を待っている仲間です。(参:ローマ8・19~21)
自然の中で、私たちが統御できないもの、私たちにとってしばしば驚異的な存在となるものの1つは、海です。海は、世の初めに創られ、私たちといつも共に在り、しばしば、その美しさによって私たちを魅了し、その豊かさによって私たちに便宜を齎してくれますが、同時に私たちにとって大きな脅威となることもあります。けれども、世の終わりに、自然の中の、私たちにとっての脅威となる要素が取り除かれ、美しい部分だけが残される、そのことを表現する為、黙示録の中に、「もはや海もなくなった」(21・1)と記されています。
世の終わりまで、共に生きる仲間として歩んで行けたらと思います。
高校1年生の秋、福江大火で家が全焼し、港の傍の埋立地の仮設住宅に住んだ。
その時、家や思い出の品が焼失した悲しみをいやしてくれたのが毎朝、水平線から昇ってくる朝日だった。
光り輝くような天地創造の世界がそこにあり、その瞬間には悲しみを忘れ、朝日を眺めたものだった。雨が降らない限り、その光景を、家の台所の窓から眺められたことは、何という贅沢なひとときであっただろう。
しかし、海の恐さも十二分に知っている。
台風の時の海のすさまじい荒れ方。おだやかな海が牙をむいた動物のように一変する。春夏秋冬、海の姿は変化する。
しかし、いつも私の心にあったのは、海はパパさまにつながっているという安心感。
もし、津波が来て流されても魂はパパさまのもとに着き、やがて天国につながるという思い。
71歳になった今も海は大好きである。
一昨日も電車から海が見える所へ行った。
海を見ると嬉しい気持ちになり、今では、フランシスコパパさまとつながっているのだと思うと、ますます心が弾むのである。