自然とわたし

遠山 満 神父

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人との関わりに疲れた時、しばしば散歩道を祈りながら歩きます。すると、いつの間にか心が癒され、生きる力が蘇ってくるのを感じます。そのような時、自然の中にある癒しの力を感じます。

自然を通して、多くのことを学ぶこともあります。例えば動物の親たちが、子供を大切に育てている姿を眺める時、神様は動物達の姿を通して、私たちが本来どのように子供に接していくべきかを教えて下さっているのではないかと思えてきます。特に、動物たちが命をかけて子供を守る姿は感動的です。

他方、自然は、様々な醜い要素も併せ持っております。例えば、動物の世界の弱肉強食の在り方は、私たち人間が決して見習うべきものではありません。また、地震や津波、豪雨などは、私たちにとって脅威となります。そういう意味で自然は、私たち人間が、神格化する対象ではなく、むしろ共に生きる仲間だと考えます。共に長所と欠点を併せ持ちながら、救いの日を待っている仲間です。(参:ローマ8・19~21)

自然の中で、私たちが統御できないもの、私たちにとってしばしば驚異的な存在となるものの1つは、海です。海は、世の初めに創られ、私たちといつも共に在り、しばしば、その美しさによって私たちを魅了し、その豊かさによって私たちに便宜を齎してくれますが、同時に私たちにとって大きな脅威となることもあります。けれども、世の終わりに、自然の中の、私たちにとっての脅威となる要素が取り除かれ、美しい部分だけが残される、そのことを表現する為、黙示録の中に、「もはや海もなくなった」(21・1)と記されています。

世の終わりまで、共に生きる仲間として歩んで行けたらと思います。

自然とわたし

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

まわりが海の五島列島で生まれ育ったせいか、私は海が大好きである。

幼い日、世界中の海はつながっていて、ローマのパパさま、すなわちローマ法王の所にもつながっていると教えられた。その上、五島は日本でも西の端なので、パパさまに一番近いとも教えられた。

私がまだ五島にいた子どもの頃、ピオ12世パパさまが危篤になられ、福江教会あげて、朝・昼・夜とお祈りしたことを覚えている。それでも足りなくて、浜辺に行って海に向かい、「パパさま、パパさま、お祈りしています」と呼びかけた。

高校1年生の秋、福江大火で家が全焼し、港の傍の埋立地の仮設住宅に住んだ。

その時、家や思い出の品が焼失した悲しみをいやしてくれたのが毎朝、水平線から昇ってくる朝日だった。

光り輝くような天地創造の世界がそこにあり、その瞬間には悲しみを忘れ、朝日を眺めたものだった。雨が降らない限り、その光景を、家の台所の窓から眺められたことは、何という贅沢なひとときであっただろう。

しかし、海の恐さも十二分に知っている。

台風の時の海のすさまじい荒れ方。おだやかな海が牙をむいた動物のように一変する。春夏秋冬、海の姿は変化する。

しかし、いつも私の心にあったのは、海はパパさまにつながっているという安心感。

もし、津波が来て流されても魂はパパさまのもとに着き、やがて天国につながるという思い。

71歳になった今も海は大好きである。

一昨日も電車から海が見える所へ行った。

海を見ると嬉しい気持ちになり、今では、フランシスコパパさまとつながっているのだと思うと、ますます心が弾むのである。


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