多くの人が1本の線で描かれたデザインには、皆一つになろうとの願いが込められています。チェーン店の最高経営責任者は「カップのデザインは、当社が従業員やお客様との間に築いてきたコミュニティの絆を表したものです。アメリカが分裂している今、我々の価値観や、互いを尊重することの必要性を思い出すために、結束のシンボルとして作成したものです」と話しています。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」で始まるイエス様のたとえ話が思い出されます。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。(ヨハネ15・1と15)
私たちが、このイエス様からの愛の呼びかけに心を開き、ちぎれた絆を回復し、愛の一筆書きを完成させることができますように、祈りたいと思います。
昔の人はお天道様が見ているのだよと言われたものです。それは比喩的な言い方でしょうが、わたし自身、こっそり悪いことをしたとき、誰も見ていなくても、必ずその結果である懲罰が襲いかかってきました。
戦後まもなく、私が小学生のときに、近所の友だちと、バラック造りの金物屋に入って、洋食の道具、ホークやスプーンや皿を盗んだことがあります。盗んだ金物はみな、店の裏庭に穴を掘って捨ててきましたが、しかし、そのことはちゃんと学校の担任の先生に知られていました。そして、先生からこっぴどく叱られました。
ちゃんと見ているひとがいるんですね。
反対に、隠れて独りで祈ったり、善いことをしていると、その結果、良いことが沢山起こります。わたしは戦前、戦中、戦後と数多く乗り物に乗りましたが、一度も事故に遭ったことがありません。それは乗る前に安全を祈っているからだと思います。
このように、繋がりを意識して、良いことを念ずるときには、波動のようにそれが広がっていくのです。