自分の過去を思い起こす時、小さい頃の自分がよく出てきます。
これまで、たくさんの方と出会い、いろいろな体験を重ね、それが今の「自分」にとって貴重な財産となっていることを思えば、人とのつながりの重さを感じます。
人は、望むと望まざるとにかかわらず、人とのつながりは必然的なのです。それを回避することはできないのです。一人ひとりの存在が他者のためだからです。
誰でも、体験がおありではないでしょうか。自分のある行いによって、誰かが喜んでくださることになれば、自ずと嬉しくなりませんか。そして、自分にも元気が出てまいります。前に進んでいく力に変わってくるのです。ここに「奉仕する」ことの真意があるように思います。
民族、性、育ち方がいくら違っていても、心の奥では共鳴、共感しあえる感性を持ち合わせています。国境はありません。だからこそ、美しいものは誰にとっても美しい、嬉しいことも同じです。平和に対しても同じ感覚を持っています。
なんといっても、わたしたちは「平和」な日々を求めています。幼少時代は平和でした。そのつながりの延長に今があります。「平和」でつながった「わたしたち」であり続けたいのです。それが神の望みですから。この繋がりを、今日も隣の人とつくり上げ、深めていきたいですね。
人の人生は、まさに、人間関係の歴史そのもの。その中には、良好な関係もあれば、険悪な関係もあります。またその関係は長く続くこともありますが、せっかく築き上げた関係が短期間で崩壊してしまうこともあります。憎しみ、ねたみ、疑心暗鬼、へつらい、などが、人間関係を歪め、悩みのタネになっています。
家庭内では、夫婦関係や親子関係が歪み、離婚や家庭内暴力が。学校においては、先生と生徒、あるいは生徒同士の人間関係の歪みから、校内暴力、いじめ、登校拒否、最悪の場合、自殺事件とまでなる昨今の現状は、実に嘆かわしく、だれもが、なんとかしなければ...という切迫感に襲われています。
「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛、愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」。(1コリント13・4~7)
聖書の一節ですが、この言葉を謙虚に噛み締めたいと思います。