ボランテイアならばふつう、からだの不自由な方には車椅子を押したり、お掃除や料理、買い物などをしてさしあげられます。どこかでそういうものだと思い込んでいるので、なにもしないでただそばにいて見守っているだけって、居心地がわるくなってしまうのです。服の袖に手を通そうとして、うんうんうなっているのを見るとつい手がでてしまう・・・ 。
大きな声でさけんでいるあなた。いっしょうけんめいテーブルをたたいているあなた。赤ちゃんのようにきゃっきゃとわらっているあなた。
ごはんをたべておかたずけ。お茶碗あらうひともいる。
ありのままのあなたをあるがままに見ている、ただそっと見ているだけ。
気がつくとゆったりと一日が過ぎて、お祈りの静かな時間があって、短い歌をうたい、みんなで「おやすみなさい」。この安らかなたとえようもないよろこびはどこからくるのでしょう。
こんなわたしを受け入れてもらったのです。言葉がなくとも、わかりあえるのです。
なにもしないでただ一緒にいただけだったのに、癒されたのはわたしのほう。
とっておきの隠れ家で一緒に生きる仲間たち。
ずっとずっと繋がっていたい、この仲間たちと。
そして今の自分を俯瞰して、両親を始め、多くの人の愛に育てられ、生かされてきたこと、私の場合、幼児期に両親を失い、育ててくれた祖父や伯母、大叔母の愛情、先生の導きを改めて想った。
そして夫との結婚が私の人生に最大の恵みをもたらしたことを再認識して感謝した。
夫は旧満州生まれ、16歳で敗戦。価値観が逆転し、何を信じていいか分からない心の闇を抱えて引き上げた。
長女の入園を機にキリストの教えに触れ、普遍的価値観を悟り、いきなり洗礼を受けたいと言い出した。最初は反対した私も、夫に引っ張られて一家でカトリックの洗礼を受けた。夫が癌で亡くなって久しいが、天国で神のいのちの内に生きて輝いていることが信じられる。
2千年以上の歳月を迫害にもめげず国や人種を越えて人から人へと伝えられ、日本の私にも伝えられて、心の拠り所となっているこの信仰が、私の人生最高の宝となっているから。
『私はいつもあなた方と共にいる』(マタイ28・20)と言われたキリストの愛の力を一人ひとりが実感し、これからの生きる道を見いだして心身共にリフレッシュされた3日間だった。