私の敬愛する詩人で、病気で療養中の方と文通をしておられる方がある。励ましが必要な方に手紙を送って交流しておられるのだ。フルタイムの仕事を持ち、家庭があり、詩人として原稿を書いた上での文通である。だから何人もの方に書けるわけではない。
そのうち一人の方の病気が進み、視力が弱くなられたので、手紙はカセットテープでの「声」の文通になった。視力が衰えて、どれほど辛かっただろう。そして自分を気遣って届けられた声に、どれほど支えられ勇気づけられただろう。この人がいてくれるから生きよう、と思ったのではないだろうか。手紙を送り合ううちに、2人の心は近づいてしっかりと繋がったのだ。
聴衆を熱狂させる話術も人を繋げることはある。だが本当に人を救うのは、時間をかけて育まれ、その人の喜びにも辛さにも寄り添う心の繋がりではないかと思う。
さて、どんな良い環境で育ちましても、13才くらいになりますと、若者は生理的に混乱する年代を迎えます。混乱しがちな青春の心を、どう処理し何を大切にして生きていけばいいのか、若者は苦しみます。つまりアイデンティティの統合を、どの方向に繋げ、何を信じ、大事にしたら、この苦しい混乱感が統御されていくのかと苦しむ時代を迎えます。ここが人生の神秘的なところです。
私は高校2年生の時、ドイツの神父さんと偶然出会い、神様との繋がり方を、その神父さんから教えて頂きました。
洗礼という繋げ方は強烈な力を持ち、繋がると激流のような気づきが湧き出した記憶があります。信じると見えてくるものもあり、パイプが繋がったなあ、という感動を今でも鮮明に覚えています。
美しい恋人に遭遇したり親友が生まれたりしますと、そこに命の輝きがうまれてきます。
神の愛という大きな海に繋がり、その豊かな心が自分に流れ込んできますと、青春の混乱感が見事に整理され、生きる希望と喜びが湧き出しました。この、神さまに繋がった思い出は私の宝物です。