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先取りする

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

私とイエス・キリストとの出会いは、小学校1年生の時に米沢の殉教地、「北山原」に寄り道をした時だった。いばらの冠をかけて両手両足を十字架につけられたイエスのご像に出会った。あの時、自覚はなかったが、私はキリストから先取りされるように呼ばれたのだ。

やがて、女子大の英会話の先生の紹介でプロテスタントの洗礼を受けた。仕事の関係で英国国教会の信徒になったが、1年もしないうちに病気になり、別の仕事に就いた。

その時から私はカトリックに呼ばれた。キリスト教は一つとはいえ、カトリックは私に合っていた。司祭が2年間、毎週2時間、キリストの教えを徹底的に教えてくださり、26歳の時にカトリックに改宗した。この変遷は、のちにカトリックのマス・メディアで働くために、キリストがそうさせてくださったと思っている。

 

キリストに呼ばれて、洗礼を受けて生きていくというのはどういうことかと時々考えてみる。キリストは、宝石の原石であった私を多くの苦難や試練を送ることによって磨きをかけ、今やキラキラ輝く宝石にしてくださったような気がしてならない。イエスは、宝石の私を粗末な紙で包み、私の行く先々に贈り物のように置いてくださる。

小さなアパートに戻れば、教会をお掃除していた時に見つかった「み心のイエス」のご像が待っている。一メートル近くあるご像なので、そばで祈ると、イエスと電話で会話をしているような気持ちになる。イエスのみ心は棘で囲まれ、愛の炎が燃えている。毎朝、出かける時に祈ると、イエスから派遣されるような気持ちになる。

イエスは復活の先取りの存在として、日々、受難を喜んでささげるようにと私を促す。