その時から私はカトリックに呼ばれた。キリスト教は一つとはいえ、カトリックは私に合っていた。司祭が2年間、毎週2時間、キリストの教えを徹底的に教えてくださり、26歳の時にカトリックに改宗した。この変遷は、のちにカトリックのマス・メディアで働くために、キリストがそうさせてくださったと思っている。
キリストに呼ばれて、洗礼を受けて生きていくというのはどういうことかと時々考えてみる。キリストは、宝石の原石であった私を多くの苦難や試練を送ることによって磨きをかけ、今やキラキラ輝く宝石にしてくださったような気がしてならない。イエスは、宝石の私を粗末な紙で包み、私の行く先々に贈り物のように置いてくださる。
小さなアパートに戻れば、教会をお掃除していた時に見つかった「み心のイエス」のご像が待っている。一メートル近くあるご像なので、そばで祈ると、イエスと電話で会話をしているような気持ちになる。イエスのみ心は棘で囲まれ、愛の炎が燃えている。毎朝、出かける時に祈ると、イエスから派遣されるような気持ちになる。
イエスは復活の先取りの存在として、日々、受難を喜んでささげるようにと私を促す。