桜は大変儚い。1週間と少しで花は散ってしまう。花のなくなった後はただの木だ。特に姿が優美なわけでもなく、誰にも振り向かれない。1年に7日間花を咲かせ、そのためだけに生きているような木なのである。
私たち人間も儚い生き物だ。折れやすく、壊れやすい。地球上のあらゆる場所に広がって、栄えているように見えても、1人1人は脆いものだ。
だが私たちは、梢一杯に咲く花の下に立って、こう思うことが出来る。「1つ1つの花は儚く散っても、桜の木は新しい花を毎年咲かせ、桜であり続ける。私たち人間も、1人1人は弱くても、力を合わせることも、次の世代に希望を送ることも出来る。そうやって私たちは人間であり続けるのだ」。
この時、私たちは永遠というものに触れているのかもしれない。
繰り返し、繰り返し春は巡って来る。一度として同じ春はない。人はそれぞれの自分の日々を生きていく。すべてが新しい日だ。何と 喜ばしく、誇らしいことだろう。
永遠を望む者として生きるということは。人間として生きるということは。
主イエス・キリストは、1人の人間として、無力な赤ちゃんとしてこの世に生まれ、両親に育てられ、仕えられて成長されました。
きっと、私たちと同じように、「繰り返し」と思われる日々を過ごされ、大人になってから始められた宣教活動においても、人間的な成功や失敗を繰り返されたと思います。その人生のプロセスと、特に十字架上の苦しみと死を通して、1人ひとりの人間の人生、特に悪としてしか受け取れない「苦しみ」や「死」に、人間的な理解を越える新しい深い意味を、「復活」を通して、新しいいのちの希望を与えてくださいました。
イエスは、御自分の生涯を通して、どんなにささやかに見える日常や人生も、神様の目には尊く、神様の愛が注がれているということ、一つひとつの出来事の積み重ねがイエスの死と復活の体験につながっていくということを私たちに伝えておられるのだと思います。
平凡な生活の一日の終わりに、その日をふり返り、いただいた恵みの数々を思い起こして、心から感謝したいものです。恵みに気付けば気付くほど、決して同じことの繰り返しではない日常に驚き、感謝と喜びを味わって生きていくことができるのではないでしょうか。