繰り返し

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

何かを繰り返し行うのは、良いことです。

私たちは子どもの頃から、物事を習うとき、繰り返し行うことによって、習慣化し習得してきました。

たとえば、朝起きて顔を洗う。「おはようございます」とあいさつをする。歯をみがく、朝ごはんを食べる、というような生活習慣もそうです。

学校では、読み書きや計算も繰り返し練習して習得してきました。

社会人となっても、仕事上の新しい知識や技能は、繰り返すことで、少しずつ確かに自分のものになっていきます。人間として大切な徳も、同じような行動を繰り返すことで、身についていきます。

ところで、祈りもまた、繰り返しによって効果を上げ、習慣となり、私たちをいっそう神様に近づけます。

カトリック信者は、日頃、「主の祈り」「アヴェ・マリア」など同じ祈りの言葉を唱えることが多いかと思います。同じ言葉の繰り返しは決して無意味なことではありません。

たとえば、ロザリオの祈りでは、「アヴェ・マリア」の祈りを何度も繰り返して唱えますが、マリア様も神様も、私たちの愛のこもった祈りをとても喜ばれるのです。祈った後は、マリア様とより親しくなれるでしょう。

祈りを通してお願いをするときも、繰り返しは効果的です。

「求めなさい。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7~8)

子どもは、本当に望むのなら、泣いたり、喚いたり、あきらめずに、何度も何度も頼むものです。

私たちが神の子どもとしての信頼をもって、繰り返し執拗に祈り続けるならば、神様はきっと願いを聞き入れてくださるでしょう。

繰り返し

小林 陽子

今日の心の糧イメージ

毎日、繰り返していること。

三度のごはん。部屋のお掃除、犬の散歩であったり・・・・あるいは学校への通学、また通勤、などなど。つまり生活、ですね。

そのむかし、リラダンというフランスの小説家が、「生活?そんなものは召使にまかせておけ」と、有名なせりふを吐きました。まだ、生意気な女子学生であったわたしは、「なんてカッコいい!」と思ったものですけれど、今やさすがに回心?しております。

山あり谷ありの人生すべて、ささいな日常のこまごましたことを粛々とはたしてゆくことの積み重ね。生活をすがすがしくととのえることは、善いことなのです、と悟ったのはなんと最近のことなのです。

あー、ほんとに恥ずかしい。といって生活のために生きているのでもないし。そこがむずかしいところですね。

アドレス帳に書き加えられた名前に、「ああ、ことしの新しい出会い」と思い、また亡くなったかたのお名前に十字架のしるしをつけて・・・・生まれては死んでゆく人の世の大きな大きな流れ。

連綿と繰り返されてゆく生き死にの、その流れのなかにいま、わたしがいる・・・・在ることのおどろき、これも奇跡、と不思議な感動にとらわれます。

さて、毎日おなじことの繰り返しでウンザリしませんか、って。もし、まったくおなじことの繰り返しならね・・・・・でも、そうではありません。

わたしたちの心もそう。風も空気も光も小鳥の声も、咲く花たちも一日としてじっと動かずに同じところにいることはありませんもの。

そうして究極の繰り返しとは、おそろしく当たり前のことですけれど、人が生まれ、死んでゆくことの繰り返しではないでしょうか。


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