繰り返し

森田 直樹 神父

今日の心の糧イメージ

私が住んでいる司祭館には、4つの植物の鉢があります。2つはサボテンなので、ほとんど水をやる必要がありませんが、あと2つは様子を見ながら、水をやり続ける必要があります。とはいえ、「花より団子」に興味がある私にとって、これらは未知の植物でした。

そのうちの1つは、後から分かったことですが、小さな胡蝶蘭の花の鉢で、私が仙台に着任した3年以上前からあり、時々、気にかけてはせっせと水をこの鉢にやり続けていました。

3年近く、何の変化もなかったのですが、昨年の春に、小さな葉っぱが出て来たのに気づきました。せっせと水をやり続けていたのは決して無駄ではなかった、という喜びの瞬間でした。

それからも、様子を見ながら、水をやり続けていますと、葉っぱはみるみる大きくなり、ついには、枯れ枝と思っていたところに、小さなつぼみを幾つかつけ始めました。

昨年の夏の終わりには、小さな花が7つ並んで咲いてくれました。あまりにもかわいい花なので、教会入口の受付に置いてもらいました。花の持ちも良く、数週間は美しくてかわいい花を楽しむことができました。

今はまだ、この鉢は葉っぱだけになっています。それでも、昨年美しくてかわいい花を目にした私は、繰り返し、繰り返し、様子を見ながら水をやり続けています。この鉢は単に葉っぱだけの鉢ではないことを知ってしまったからです。

繰り返し何かを行う、ということは、時に、退屈さを生み、かすかな希望をもそいでいきます。それでも、繰り返し続ける、ということは、決して無駄なことではないことを、この花は教えてくれたのだと思います。

もしかすると、この世の中には、無駄なことは何一つないのかもしれません。

繰り返し

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

今の不安な世の中、様々な悲惨な出来事、事件、事故に出くわすごとに、心の奥底から、救いを求め、安全、平和を願う祈りが自ずと込上げてくるのは、私だけでしょうか。

話は100年ばかり遡りますが、19世紀フランス・カルメル会の修道女、幼いイエスの聖テレジアは、自叙伝の中で、いみじくも祈りについて、「私にとって、祈りとは、心のほとばしり、天に向ける素朴なまなざし。辛い時にも、苦しい時にも、天に向けて上げる、感謝と愛の叫び」と、このように、祈りは天に向けての叫びと言っています。

静かな修道院の中での天に向けてのこの祈りの心は、遠く離れた今日の日本の喧騒たる社会の真っ只中にあっても共有できるものであります。祈りの心、神仏に手を合わせる心は普遍、失われることはありません。

日本には、古くから、自然保護の象徴とも言える鎮守の森が、全国各地に存在し、この鎮守の森に柏手を打つ善男善女の謙虚な姿は今日に於いても、見られる美風であります。

昨今、核問題やテロ、大気異変、天変地異に直面し、人々の祈りは、切実な叫びともなっています。熱い祈りの"ほとばしり"は、心に、絶えず繰り返し口ずさむ形、(口祷・念祷・射祷)に自然となり、祈りは、一層、強烈となってきます。次の言葉は、聖書の言葉です。真摯に受けとめ、真摯な祈りを絶えず捧げたいものであります。

 

「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ 5・17)「何事も心配せず、全てにおいて感謝を込めて祈り、かつ、願い、あなたが望んでいることを神に向かって打ち明けなさい。そうすれば、人間の理解をはるかに超える神の平安があなた方の心と思いを守ってくださいます」(フィリピ4・6)


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