キリシタン大名であった高山右近は、その苦しみを、乱世の時代に経験した人です。右近の主であった荒木村重が織田信長に謀反を起こした時、彼は、これを翻意させようと考え、身内を人質として村重に差し出し、説得しますが、功を奏しません。かといって、村重の側に着けば、信長がキリシタンを攻撃することは明らかでした。最終的に彼が選択した道は、自分の武士としての地位を捨てて、人質とキリシタンの両者を救うという道でした。彼は、最終的に、人を超える方を主として選び、その方に従う道を選んだのでした。
先に述べましたように、現代日本に生きる私達も、乱世に生きた侍たちと同じような苦しみを経験します。それは、どの主人に仕えれば良いのかという苦しみです。そんな苦しみを抱える私達が、唯一の誠実な主であるイエス様を見出すことができますよう、「右近殿、天国から祈って下さい」と叫ばずにはおれません。
右近は戦国の武将としても立派であったが、6万石の領地と財産をすべて棄て、信仰を守って生きることを選んでいる。魂の人として生きようとしたのだろうか。
魂の声を聴き、それに従って生きるのは大変に難しい。現代人である私たちも同じである。魂は大事なことほど小さな声で囁くので、静かに自分自身を澄ませていないと聞こえない。そしてしばしば、声は私たちにより困難な道を行くように指し示す。
だが、その道が私たちの道なのだ。
或る医師が、1日の仕事を終え、疲れて帰宅した。やっと休めるという時、病院から電話がかかってきた。相談事を抱えて、医師に面会を求めて来た人がいたのである。降る雪の中を、彼は病院に引き返して行った。電話で話を済ませることも、面会を断ることも出来たであろうが、彼の魂のようなものが、そうさせなかったのだろう。聖人や福者には及びもつかなくても、このようなささやかな行為で、人は魂に答えているのである。
ささやかなことを積み重ねて、私たちは困難な道を行く。時々は怠けて楽をする。それからまた、魂のことを思い出し、自分らしく歩いて行く。