自分らしく

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

お金があれば何でもできると考えてしまいがちな私達、つまり富を神様のように考えがちな私達に、イエス様は、「誰も、2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と仰いました。(マタイ6・24)

しかし私達は、日常生活の中で、2人の主人に如何に仕えるかという課題にしばしば直面します。例えば、何らかの組織に、あるいはグループに属していて、2人のリーダーの意見が食い違う時、はて、どちらに従えば良いのだろうと困惑したりします。両者の対立が深ければ、狭間にいる私達の苦しみも大きなものとなります。

キリシタン大名であった高山右近は、その苦しみを、乱世の時代に経験した人です。右近の主であった荒木村重が織田信長に謀反を起こした時、彼は、これを翻意させようと考え、身内を人質として村重に差し出し、説得しますが、功を奏しません。かといって、村重の側に着けば、信長がキリシタンを攻撃することは明らかでした。最終的に彼が選択した道は、自分の武士としての地位を捨てて、人質とキリシタンの両者を救うという道でした。彼は、最終的に、人を超える方を主として選び、その方に従う道を選んだのでした。

先に述べましたように、現代日本に生きる私達も、乱世に生きた侍たちと同じような苦しみを経験します。それは、どの主人に仕えれば良いのかという苦しみです。そんな苦しみを抱える私達が、唯一の誠実な主であるイエス様を見出すことができますよう、「右近殿、天国から祈って下さい」と叫ばずにはおれません。

自分らしく

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

キリシタン大名としてよく知られる高山右近の殉教の生涯が認められ、この度、福者の位にあげられることになった。殉教者と聞けば、迫害を受けた果てに殺害されるといった、壮絶な生涯を私たちはイメージしがちだ。だが、高山右近はキリシタン追放令の下で、不遇な人生に耐えぬいた人で、いわば生き続けることに殉教があった、静かなる殉教者だったようである。

右近は戦国の武将としても立派であったが、6万石の領地と財産をすべて棄て、信仰を守って生きることを選んでいる。魂の人として生きようとしたのだろうか。

魂の声を聴き、それに従って生きるのは大変に難しい。現代人である私たちも同じである。魂は大事なことほど小さな声で囁くので、静かに自分自身を澄ませていないと聞こえない。そしてしばしば、声は私たちにより困難な道を行くように指し示す。

だが、その道が私たちの道なのだ。

或る医師が、1日の仕事を終え、疲れて帰宅した。やっと休めるという時、病院から電話がかかってきた。相談事を抱えて、医師に面会を求めて来た人がいたのである。降る雪の中を、彼は病院に引き返して行った。電話で話を済ませることも、面会を断ることも出来たであろうが、彼の魂のようなものが、そうさせなかったのだろう。聖人や福者には及びもつかなくても、このようなささやかな行為で、人は魂に答えているのである。

ささやかなことを積み重ねて、私たちは困難な道を行く。時々は怠けて楽をする。それからまた、魂のことを思い出し、自分らしく歩いて行く。


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