自分らしく

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

高山右近は、最期まで、神への愛のために自分のいのちを捧げたいという望みに忠実に歩み、事実、「殉教者」となり、神に栄光を帰しました。「神の栄光」とはどういうことか、それは、その人がその望みのとおり、最もその人らしく在る、生きるということではないでしょうか。

右近の霊的な歩み、信仰の内的プロセスは、神が高山右近という一人の人間を創造されて、その人間性のうちに完成されていく神御自身の働き、神のみ業の物語だと、私は理解しています。

右近も、最初から「真のキリスト者」にふさわしい人間だったわけではありません。彼も、戦国時代の価値観、権力や力に重きを置く精神に感化され、「自分」の名誉のために、死を厭わずに戦おうとする「英雄」にあこがれていました。そして、彼は、「信仰の戦い」においても、常に「自分」に中心を据え、自分の信仰を確信していました。しかし、様々な時代的背景と自分の無力さと人間的欠如を自覚する体験を通して、神のあわれみに目覚め、徐々に、神に自分自身を委ね、神の恵みによって自己を他者に明け渡して、キリストの模範に倣う「愛の人」、真に神の愛のためにいのちを懸ける人に変えられていったのです。

右近の内的な成長過程は、同じ人間として、大変興味深く、親しみと感銘を覚えます。右近の生涯は、右近が自分らしく生きるために、常に大切に心に抱き続けてきた「自分の命を捧げる」という望みを生きたように思えます。そしてそれは、彼がキリスト者になる以前から神によって導かれ、神をあかしするために、「殉教者」としての道を歩むように、神が準備された道のりであり、右近自身の神への応答だったのだと感じます。

自分らしく

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

私はこれまで、切支丹大名である高山右近について、さして知りませんでしたが、平成28年11月の機関紙「心のともしび」に載った、溝部司教様のお話で、右近が主君筋にあたる相手と斬り合いをしてしまったということを知って、びっくり仰天してしまいました。

これは、私がうすうす思い描いていた右近像とは全く違っていましたが、私の大好きなデュマのモンテ・クリスト伯の中にも決闘の場面があるので、右近が一挙に身近な、関心を持てる存在になってきました。

司教様のお話では、右近の殉教は、一挙に殺される場合と違って「自分の意に反してゆっくりとキリストのために長く死んでゆく」という事でした。そしてそれは、自分の人生に与えられた苦しみ、十字架を背負いながら喜んで生きる、という現代の私達の歩みに与えられた殉教の意味だと結んでおられました。

さて、私も私なりに、自分を主なる神様に捧げて生きたい、残された人生は特にそうありたいと願うのです。

そういう私の暮らしは、身の周りの楽譜の山や、メモや予定表の紙が積み上げられたり、それが崩れて散乱したりして足の踏み場も無く、何がどこにあるのか、もはや分からない中で行われます。その中から、目的の楽譜なり予定表なりを根気よく探す、これは疲れます。これも、もしかして私の殉教の一部?かもしれません。

私が生活すると「意に反して」こうなるというところが、私が右近に似ていると言えませんか(言えません!との声)。

どうやら私が若かった頃、修道者だったあの頃も、私の室内は今と似た状況だった事を思えば、これはむしろ、私らしいのかも知れず、であれば、もはやお手上げという外ないかも知れず・・・。


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