自分らしく

片柳 弘史 神父

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高山右近は、殉教者だったと言われている。教えを守って処刑されたという意味での殉教者ではない。右近は、何十年もかけて、ゆっくりと自分の命を神に捧げた殉教者なのだ。

右近が生きたのは戦国乱世。誰もが欲望をむき出しにし、富や名誉、権力を手に入れるためなら手段を選ばない時代だった。そんな中にあって、右近は私利私欲のために生きる道を捨て、ただ、神の御旨のままに生きる道を選んだ。自分のことは脇に置いて、神のため、人々のために自分の命を捧げ尽くす道を選んだのだ。

人間らしく生きる道を選んだ、と言ってもいいかもしれない。自分の欲望を満たすためだけに生きるなら、それは動物の生き方と何も変わらないだろう。人間らしさは、自分のことを脇においても神のため、人々のためを思って行動できる力にこそある。戦国乱世にあっても人間らしさを失わなかった右近は、道義を重んじ、領民を思いやる君主として人々の尊敬を集めた。

わたしたちが生きる現代も、ある意味で「乱世」と言っていいだろう。厳しい競争社会の中で、誰もが自分の生活を守るのに必死で、他人のことや、神様のことまで考えている余裕がない。何かを判断するときには、自分にとって損か、得かということだけが判断の基準になりがちだ。

いまこそ、わたしたちは右近の生き方を思い出すべきだろう。自分の利益だけを考えて争い合うのでは、動物と同じだ。人間らしさは、自分の利益よりも、神様のこと、人々のことを先に考えられるかどうかにかかっている。「これは自分にとって損か、得か」と考えそうになったら、すぐ「これは神のため、人々のために役立つか」と考え直す習慣を身に着けることで、人間らしさを取り戻したい。

自分らしく

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

私は、高山右近の列福にあたり、彼の生涯に思いを馳せ、同時代の人々に比べ際立って「右近ならでは」と思える部分をあぶりだしてみました。武将としてのふるまいに優れた人物であったであろうことはわかりますが、群雄割拠していた時代でもあり、際立っているとは言えません。

親子関係や自分の領内での領主として生きる日々に、キリスト教徒として信仰に支えられた右近らしさを見出すことが出来ます。身分制度や年齢の上下が厳しい時代にあって、平等な広い心をもって他者に関わり「仕えられるより仕える人であれ」というみ教えのままに生き、聖書のタラントの例え話さながら、築城の技術や茶道への精進など自らの才能を自覚し周りの人々の為にその才能を活かす生き方はまさに右近らしいものです。

この、私が感じる「右近らしさ」に自分自身を当てはめてみます。

私は、母がクリスチャンだったので、物心つく頃からキリスト教にどっぷりと浸かり、幼稚園・小学校もミッションスクールという環境で育ちました。自然に誰とでも打ち解けて自分の考えを臆せず話せる明朗闊達な学童期を過ごし、大人になりました。

結婚と美術の指導者になるのがほぼ同時であったので、今日までの50年は「今日の事は今日やり遂げる」をモットーに、過去に引きずられず未来に惑わされず、人生は全て神様からの賜物と感謝して、元気に生きてきました。新しい出来事に遭遇する度、メーテルリンクの「青い鳥」の未来の国の子供たちが背負っていた袋を思い出し、私の袋に神様はこんな荷物を入れて下さったと感謝したり、残りはどれ程と思ったりします。

自分らしさは右近らしさに重なる処がありそうです。


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