でも、本当に自由な人は、黙って「自分らしく」生きていると思います。真の自由、真の個性とは、声高に自分らしさをアピールせずとも自然に行動できること、そして周りがそれを認めていくことではないかと思うのです。
行動の判断基準はたくさんあります。正しいと信じたらまっすぐ進む、過ちに気付く力を養う、人と比べず自分のやり方を見つける、あるいは人と正しく比べて自分の状況を知る、誘惑に正しく対応する、ときには自分に対しても寛大になる、あるいは厳しく戒める、などなど。どんなとき、どの基準を適用して行動を決めるか、そのあり方が自分らしさなのではないでしょうか。自由に生きるためには、まずは自分の力で考え、実験する必要があると思います。
でも、どんなに考えてもがんばってもヒントが見つけられず、前に進めないことがあります。そのときの切り札として、祈りがあります。答えがなかなかもらえずあせったりもしますが、心の状態を言葉にして祈れるだけでも前進だと思います。苦しくて祈れないときは、人に祈って助けてもらいましょう。それでも、自分の中に埋もれてしまうよりずっと効果があります。考える前から神様が働いてくださることもあります。
諦めず、やってみようではありませんか。
右近はお茶・茶道を嗜んだそうですが、乱世の折、お茶を好んだ武将たちは、よく戦いの前に、同じ茶碗で茶を飲み、一期一会の時を過ごしたと伺ったことがあります。最後の茶、今生の別れになる・・・、そんな思いで、大切な人との時を過ごしたのかも知れません。右近は、きっとその様にご自分の時、一度限りの人生を大切に歩まれたのでしょう。
私たちは、何を大切にして歩んでいるでしょうか。右近は大切なものを守るため、多くを手放しました。でも大切なものは決して手放さずに、右近らしく生きてゆかれたのですね。
慌ただしく日常を歩んでいる私達ですが、歩みを少し止めて、自分らしさって何だろう、自分らしさを生きているかなと考えて見ては如何でしょうか。もしかすると様々なことに流されて、本来の自分、生き方、大切なものを見失っていることに気づくかも知れませんね。
そのことに気づいたとすれば、それは決して小さなことではなく、大きな気づきだろうと思います。そして心新たに、大切なものを大事にしながら歩んでゆく時、その歩みは今までと違った歩みになるでしょう。新たな自分らしい歩みがどうか祝されたものとなります様に。