▲をクリックすると音声で聞こえます。

始め善ければ・・・

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

私の父は高校の体育の教師だった。放課後は陸上部のコーチをしていた。父は選手をその気にさせる名人だったように思う。インターハイや国体でも優勝する優秀な選手を何人も育てた。選手と父は、いつもユーモラスな感覚に満たされていた。

さて、「始め善ければ・・」というテーマで思い出したことがある。父のコーチとしての面目躍如という試合があった。他県でインターハイがあった時のことだ。1万メートルに出場する男子の選手がいた。なんと試合の直前に父に「先生、スパイクを忘れてきました」と言ったのだ。父はしばし絶句したが、今から試合で走る選手を叱っても仕方がない。あわてずに、とんでもないアドバイスをした。「このグラウンドにスパイクは合わない。アップシューズのほうがぴったりだ」と。そして、「スタートが大事だから囲まれないように、始めに飛び出して引き離し、あとは最後まで他の選手に追いつかれないように走れ」と言ったのだ。

父のアドバイスによって、その選手はその気になって、スパイクを履いている選手を見ても動揺せず、始めから飛ばした。ほかの選手に囲まれたりしないようにして走り続け、なんと優勝してしまったのだ。父はスパイクを忘れたと聞いた時にゾッとしたそうだ。まさか父の言った通りに走ることができるとは思ってもいなかったし、まして優勝するとも思っていなかった。

もし、父が「スパイクを忘れるなんて、バカヤロウ!」などと選手を怒鳴ったりしたら、試合に出ても、「どうせ負ける」と思って惨憺たる結果に終わっていただろう。私は父のこのエピソードを聞いてから、人は、どんな状況でも、初めから諦めてはいけないということを教えてもらった。