さて、長男が小学3年生の夏、転勤で東京のど真ん中へ引っ越しました。転校した小学校へ登校するには、交通量の多い国道を渡らなければなりません。国道を覆うようにして高速道路が走っており、排気ガスが常に充満していました。急激な環境の変化に、私も子供たちも風邪ばかりひいていました。子供たちの遊びにも変化がありました。通学路に大きなスーパーがあり、おもちゃがすぐに買えるのです。小さなおもちゃを集めては、自慢しあいます。せかせかと流れる時間の中で、私はこのままではいけないと思いました。
6年前、私たち夫婦は大都会の横浜から、おおらかな生活を求めて、大自然の北海道大沼へ移住しました。現在は、湖畔の森の中で羊を飼って暮らしています。時間はゆったりと流れていきます。
時々子供たちは、孫たちを連れて遊びに来ます。
「ここはのんびりするなあ」
孫たちは仔羊たちとたわむれながら、いかにも楽しそうです。
子供たちは呟きます。
「ここは、第2のふるさとだよ」
身近な友人を観察していると、過剰反応というか過敏症というか、周囲の人の言葉に異常なほどに反応し、自分で自分を嫌われ者にしている人も沢山います。心を表現する言葉は、表現したい内容の氷山の一角にすぎません。虚しいものでもあります。その空しい言葉に囚われて喧嘩、悪口、いじめは後を絶ちません。
かたや言葉を大切にしつつ実におおらかに明るく幸福に生きている人も沢山いて、相手がどんな汚い言葉を発しても、何故、そのような汚い言葉を言ったのか、その意味を考える人もいます。その人は人間大好き、怖い人間も、善良そうな人間も、どちらにも深い関心をもっている。
何故そのような関心があるか、観察していくと、彼が信じている神様は「全知全能で愛そのものの神様、その神様は全ての人間と直接、聖霊を通して交流している」と信じているようです。ですから、相手がどんな汚い言葉、意地悪な言葉を自分に向けても、その聖霊が自分の成長と人間の器を大きくする為の試練と解釈しているようです。ですから彼の身辺に起きるどんな現象も一つも無駄にならないのです。なんとおおらかな心でしょう。