ところで、私は今、こうして「おおらか」と題して、このエッセイに取り組んでおりますが、空港で読んだ、あの本には「おおらかという単語は使われていなかったように思います。しかし、面白いことに、解説の部分に「おおらか」という言葉が出てきたのをみてちょっとばかり驚きました。
というのも、本文には一度も出てこなかったように、私達の生活の中で、「おおらか」という言葉はどの程度使われているか、改めて考えさせられてしまいました。
また、聖書の中で使われているか考えてみましたが、例えば主なる神様の口から、「おおらかに生きなさい」とかのお言葉は、無かったように思います。それどころか、主からは「私のために迫害を受ける者は幸いである」(参 マタイ5・11)などと言われる始末なのですから。
そこで、困った私は、直属の上司であり、我が家の女王である妻に、事の窮状を訴えました。そうしたら、たちどころにご託宣が下ったのです。「あなたは十分いい加減なのだから、神様の御前で根明でいるという意味で受けとったらどうかしら?」と。
いや、私はホントはもっときちんとした人間なのですが。
ある深夜、疲れ切った妻が眠り込んだため、私が別室で周を寝かしつけていました。周を何度も横にするのですが、そのたびにムックリ起き続けるので、私はしびれを切らし、声を荒げてしまいました。普段は朗らかな周が、その時ばかりは大声で泣き出し、親子ともどもつらい夜となりました。
〈周は自分で望んでてんかんになったわけではないのだ・・・〉と、私はいたく反省し、翌晩は周を優しく抱っこしながら布団に入りました。そっと電気を消し、周が起き上がっても無理強いせず、毛布で体を包むと、いくらか早く寝入ったのでした。
このささやかな経験から、私は難題に直面した時こそ、あえて一度、おおらかな心を持つことと、隣人をよく観察する深い知恵が大切であると気づきました。
それを掘り下げてゆくと、様々な人と日々の修練の場を生きてゆく鍵となるでしょう。