おおらかに

黒岩 英臣

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ほんの数日前、私は大好きなマーラーという作曲家の交響曲で、"復活"という名のついた大曲を、朝から夕方までのリハーサルで指揮して、もう擦り切れた雑巾みたいに疲れて、空港のレストランで本を読みながら、ビールを飲んでいました。

その本とは、これもまた私の好きな、などと言うのもおこがましいような、曽野綾子さんの著作で、「魂の自由人」という本です。いつもの事ですが、胸の奥までスパッと断ち切るような小気味よいたたみかけで、ホントほんとと共感できる上に、えっ?!と毎回、目からうろこの深い感覚を味わわせてくれるのです。

ところで、私は今、こうして「おおらか」と題して、このエッセイに取り組んでおりますが、空港で読んだ、あの本には「おおらかという単語は使われていなかったように思います。しかし、面白いことに、解説の部分に「おおらか」という言葉が出てきたのをみてちょっとばかり驚きました。

というのも、本文には一度も出てこなかったように、私達の生活の中で、「おおらか」という言葉はどの程度使われているか、改めて考えさせられてしまいました。

また、聖書の中で使われているか考えてみましたが、例えば主なる神様の口から、「おおらかに生きなさい」とかのお言葉は、無かったように思います。それどころか、主からは「私のために迫害を受ける者は幸いである」(参 マタイ5・11)などと言われる始末なのですから。

そこで、困った私は、直属の上司であり、我が家の女王である妻に、事の窮状を訴えました。そうしたら、たちどころにご託宣が下ったのです。「あなたは十分いい加減なのだから、神様の御前で根明でいるという意味で受けとったらどうかしら?」と。

いや、私はホントはもっときちんとした人間なのですが。

 

おおらかに

服部 剛

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ダウン症を持つ息子の周にてんかんの症状が出たのは、もうすぐ2歳になる頃でした。頭がカクンと脱力したり、両手がピクンと上がる発作に気づき、心配になった私と妻は、周を連れて病院へ行きました。精密検査の結果、てんかんであることがわかりました。それは、生後まもなくダウン症の告知を受けて以来の、二重の試練の始まりでした。

総合病院に定期受診し、年に何度かは静岡にあるてんかん専門病院に検査入院する日々は、5歳になる今も続いています。症状に合う薬はなかなか見つからず、発作の頻度は多くなり、けがをさせないように気を張りつめ、薄氷の上を踏むような暮らしの日々です。ようやく症状が軽くなる薬が見つかり安堵したのもつかの間、副作用が出始め、日中に熟睡し、夜中に覚醒するという昼夜逆転になってしまい、我が家の生活リズムはすっかり乱れてしまいました。

ある深夜、疲れ切った妻が眠り込んだため、私が別室で周を寝かしつけていました。周を何度も横にするのですが、そのたびにムックリ起き続けるので、私はしびれを切らし、声を荒げてしまいました。普段は朗らかな周が、その時ばかりは大声で泣き出し、親子ともどもつらい夜となりました。

〈周は自分で望んでてんかんになったわけではないのだ・・・〉と、私はいたく反省し、翌晩は周を優しく抱っこしながら布団に入りました。そっと電気を消し、周が起き上がっても無理強いせず、毛布で体を包むと、いくらか早く寝入ったのでした。

このささやかな経験から、私は難題に直面した時こそ、あえて一度、おおらかな心を持つことと、隣人をよく観察する深い知恵が大切であると気づきました。

それを掘り下げてゆくと、様々な人と日々の修練の場を生きてゆく鍵となるでしょう。


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