聖書には、何事にも戒律を持ち出してこだわる、ファリサイ派の人々の言動に対し、シンプルにその時一番大切な事を選び、つまづきのある人も、悔い改めれば、全てにゆるしを与えて下さるキリストは、真におおらかに振舞われたことが示されています。
礼儀を重んじ、細かい気配りが出来ることが美徳であるとされる日本人の生き方では、本音と建て前という言葉があるほどですから、見て見ぬ振りをして取りつくろう事は出来ても、心からのゆるしを与えるなどという行為は、なかなか出来るものではありません。
本気で何事にもこだわりが無く平常心を保っている事が「おおらかな生き方」と云うのなら、その生き方には信仰の有無が大きく関わってくるのです。
人生に何が起こっても、試練と受け入れてこれ以上事態が悪くなるはずは無いとポジティブに受け止め、成りゆきを神様にゆだねてしまえる人は、どんなに逆境でも時が過ぎれば、必ず好転すると信じているので安心なのです。
今年列福が決定したユスト高山右近の生涯は、大名、流浪人、居候の武士、流刑人と境遇が激変する中、キリシタンであることと、茶人を貫く事で、人生に翻弄されながらも、おおらかに生きたという模範です。
第2に、個人的な話でも、公の話として大きな声で語ることによって、1日1日の出来事を、お互いに分かち合う雰囲気を作ることです。ひそひそ話では、それを横から聞く人にとって、自分が除外されているとの気持ちをつい持ってしまいます。公の話にすることによって、お互いが分かっているという心は、お互いの協力関係を深めていくと思ったからです。
第3に、共に生活を担っていくという雰囲気です。なるべく後輩達と共にいる時間を増やしました。知的障害者と週3回の作業に出ることによって、後輩達の目先の長所や欠点だけでなく、生活からにじみ出てくる良さを、感じました。例えば、椎茸の原木一つ一つに、名前を付ける後輩のすごさに驚いたのもその時です。
そして何よりも、助かったのが、那須の山々、那須高原の雰囲気でした。小さいことでくよくよしない心、大きく物事を見る心は、大きな自然からの恵みだったと、一年間の合宿生活を終える度に、確認するのでした。