しかしイエス様の心の広さは、これに留まりませんでした。イエス様は、続けて次のように言われています。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」。(同20・22)つまり、弟子たちに、信じる人の群れの中での大切な使命、赦しの務めを委ねられました。ご自分の事を見捨てて逃げ出した、頼りない弟子たちに、大切な務めを委ねられたのです。これも驚くべきことです。普通の人であれば、こんな大失態をしでかした弟子たちに、これほど大きな使命を委ねることはしないことでしょう。「羹に懲りて鱠を吹く」という諺がありますが、この弟子たちに大きな期待をかけた自分が馬鹿だったと、自分を責めても不思議ではありません。
これまでの人生の中で、歴史上の人物も含めて、イエス様ほどの大きな心の持ち主に会ったことがありません。死ぬまでに、少しでもイエス様の心に近づけたらと思う日々です。
そもそも、「おおらか」とは、どういうことなのか。辞書によりますと、分量の多いさま、ゆったりとして こせこせしないさま、おおよう、つまり、寛大な心であります。寛大の寛という漢字は「ひろい」という意味から「心が大きい」「いつくしむ」「めぐむ」という意味にまで及んでいます。
社会の人々だれもが全員、幸せになるための共通善実現のための「おおらかさ」とはなにか。熟慮するに、それは「物質的なことに限らず、精神的なものも含め、己の最善なものを人に与え、自分自身もその人も互いに幸せと喜びを共感すること」と言えるのではないでしょうか。
聖書も次のように説いています。「『心を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』これが一番の掟である。第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛せよ』」と。(マタイ22・37〜39)