おおらかに

遠山 満 神父

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ヘブライ語で"シャーローム"と言う言葉があります。日本語では「平和」と訳されていますが、それは単に戦争のない状態ではなくむしろ幸福な状態を表す言葉です。

復活されたイエス様が、弟子たちに現れ、発せられた初めての言葉が、この言葉でした。弟子たちに向けて、「あなた方に平和があるように」(ヨハネ20・19)と仰いました。私は、この事に、今もなお驚嘆してしまいます。何故なら、御自分が逮捕された時、蜘蛛の子を散らすがごとくその場から逃げ去った弟子たちに再会して、このように言われたイエス様の心が、あまりにも大きすぎて、私にはまだ理解できないでいます。私だったら、こんな時、少なくとも小言の一つや二つ言うに違いありません。

しかしイエス様の心の広さは、これに留まりませんでした。イエス様は、続けて次のように言われています。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」。(同20・22)つまり、弟子たちに、信じる人の群れの中での大切な使命、赦しの務めを委ねられました。ご自分の事を見捨てて逃げ出した、頼りない弟子たちに、大切な務めを委ねられたのです。これも驚くべきことです。普通の人であれば、こんな大失態をしでかした弟子たちに、これほど大きな使命を委ねることはしないことでしょう。「羹に懲りて鱠を吹く」という諺がありますが、この弟子たちに大きな期待をかけた自分が馬鹿だったと、自分を責めても不思議ではありません。

これまでの人生の中で、歴史上の人物も含めて、イエス様ほどの大きな心の持ち主に会ったことがありません。死ぬまでに、少しでもイエス様の心に近づけたらと思う日々です。

おおらかに

熊本 洋

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激動、激変のデジタル時代、世の中ますますせわしく、だれしも、あくせく、せかせかせざるを得ません。この激流に立ち向かい、生き抜くことは、並大抵なことではありません。それだけに、「こせこせせず、ゆったりと 怒りや苛立ちなど感情を見せない」穏やか、温厚、円満な人柄に、だれしも、なれればなりたいと、願っています。

それぞれ、社会の第一線の職場では、上司・部下相互、また顧客に対しては、ことさら気をつかい、最大限「おおらかな心」を持って接しているに違いありません。とりわけ接客業では、それが徹底し、習慣的な行動パターンとなっています。よりよい人間関係、万全のサービス、誠に喜ばしいことですが、これがともすると、ただ単に毎回同じマンネリ反応に堕し、「不徳の致すところ」という悔やまれる事態を招きかねません。

そもそも、「おおらか」とは、どういうことなのか。辞書によりますと、分量の多いさま、ゆったりとして こせこせしないさま、おおよう、つまり、寛大な心であります。寛大の寛という漢字は「ひろい」という意味から「心が大きい」「いつくしむ」「めぐむ」という意味にまで及んでいます。

社会の人々だれもが全員、幸せになるための共通善実現のための「おおらかさ」とはなにか。熟慮するに、それは「物質的なことに限らず、精神的なものも含め、己の最善なものを人に与え、自分自身もその人も互いに幸せと喜びを共感すること」と言えるのではないでしょうか。

聖書も次のように説いています。「『心を尽くしてあなたの神である主を愛せよ』これが一番の掟である。第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛せよ』」と。(マタイ22・37〜39)


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