よく考えてみると、神のみ前で完璧に正しい善人など一人もいません。私たち人間は皆、不完全で弱い存在なのです。そんな私たちを憐れみ、ありのままを無条件に愛して下さっている天の父なる神の深い愛をキリストは説かれたのです。
私はそんな神の存在を知り、その愛に生かされている自分に気づかされてから、魂の奥に喜びと平安、勇気を感じます。困難には「神からの試練」と前向きに取り組むと必ず助けが与えられ、順調な時には、その恵みを感謝していると益々恵みが与えられることを体験するからです。
こんなにすばらしい神の愛と慈しみを多くの方は以前の私と同じように知りません。聞いても素直に受け入れようとはしません。知識豊かな人は科学的な根拠を求め、権力ある人は自力で何でも出来ると思い込んで目に見えない神の愛や恵みはいらないと拒否します。
しかし、夜明けの太陽に手を合わせて祈る人は大勢います。この時、その人は子どものように素直で幸せでしょう。燦々と降り注ぐ太陽の光は、祈る人の心を明るく照らし、生きる喜びと希望を与えてくれるからです。
同じように天を振り仰ぎ、公平に注がれる神の恵みを素直に受け取って、幸せに生きることを神はお望みなのです。
では少し外に目を向けて見ませんか。慌ただしい日常を離れ、自然の中に身を置いてみる。川のせせらぎを聞き、川面を眺め、鳥達が水に飛び込んで、羽ばたいたり、自由に泳ぐ姿を眺めながら、陽の光に照らされながら時を過ごす・・・。
神様が創られた大自然に包まれ、心が洗われる時、今までの慌ただしさを忘れ、怒ったり不平を言ったりしたことなど、様々なことが小さなことの様に思え、少しずつ心を取り戻し、ゆったりした気持ち、おだやかな心になる様に思います。
ここまでの時間は取れなくても、手を止め、外を眺め、耳を澄ませては如何でしょうか? 綺麗な花を見つけたり、鳥の声が聞こえたり、今まで気づかなかったことに驚くでしょう。今という時、場所を同じくしている存在があることに。
そんな束の間の時、他の存在との出会いの時は、「心」を広々としたものにしてくれます。それは「その存在が私を受け止めてくれている。」その様に感じているからかも知れません。私たちは受止められ、そのことに気づき、初めて相手を受止められるのかも知れませんね。
おおらかに、おおらかに。大丈夫、大丈夫。そんな心で、その様な気持ちで、1日1日を大切に過ごしてゆければいいですね。