失敗が許されない環境では、人は大きく成長することができないものです。
教員と生徒、親と子など、おおらかさは、これからを生きる人たちの個性を伸ばす上で大切な資質でしょう。
また、友人関係でもおおらかな人に巡り合えることは幸せです。
私の友人の中にもそういう人がいます。彼女は困っている人には夜中であっても朝早くても電話に出て、相手が満足するまで話を聞きます。たとえ、病人の看病で疲れ切っている時でもそうします。
私たちは、自分を守ることに力を使っている時、おおらかにはなれません。
おおらかな人、寛大な人は、損をすることをあまり気にしません。神さまがいつも私たちを愛し、支えてくれているとわかっているので、損得を心配せずに他者に心を向けることが出来るのでしょう。
たとえば、聖書に出てくる「よいサマリア人」(ルカ10・25~37)もそうです。彼は仕事に向かう途中、道端で瀕死の人をみつけ、ロバから降りて宿屋に連れていきました。それはごく自然な行為だったのです。
「おおらかさ」は神への信頼から生まれるものなのだと思います。
何を食べようか、何を飲もうか、そして、何を着ようかとあくせくしている人たちに対して、イエスは、次のような言葉をかけています。
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。...野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6・26、28〜29)
何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと悩んでいる人たちに対して、イエスは、空の鳥をよく見なさい、野の花をよく見て考えなさい、と呼びかけています。
そして、食べ物や飲み物よりも、命が大切であり、衣服よりも体が大切ではありませんか、とイエスは問いかけています。
さらに神さまは、空の鳥を養い、野の花を装ってくださるのだから、ましてや、あなた方人間にはさらによくしてくださるのですよ、と優しく諭されるのです。
何が一番大切なことか、どれを優先させるべきなのか、を空の鳥や野の花をじっと眺めながら、おおらかな心で思い巡らしていくと、本当に大切なことが見えてきますよ、とイエスは教えてくださっているのです。
ほっと一息ついて、空の鳥や野の花を眺めるおおらかな心をいつも持ち続けていたいものです。