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キリスト教との出会い

阿南 孝也

今日の心の糧イメージ

もう20年以上前のことです。日雇労働者の街で働く神父様がお話し下さったことは、生涯忘れることのできないものとなりました。

「『2人または3人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる』(マタイ18・20)とイエス様は言われましたが、あなた方の集いにイエス様がいてくださると思っているのですか? 2千年前、日々の糧に窮し抑圧に苦しむ小さくされた人々に対して、イエス様は『共にいる』と言われたのですよ。あなた方はどうなのですか?」

神父様の言葉が胸に突き刺さりました。

妻も私も、ともに幼児洗礼を授かり、日曜日には家族そろってミサに与る環境で育ちました。「嘘をつかない、人に親切に接する」といった、心の持ち様の他には、関心を持とうとしてこなかった私たちにとって、衝撃的な言葉でした。

「相手の足を踏みながら『仲良くしましょう』とにこやかに手を出したならば、相手はどう思うでしょうか?」日本などの先進国が貧しい国々から搾取していることを忘れて、自分たちだけで仲良くすることは、キリストの教えではないとのご指摘は、心に響くものでした。

せっかくいただいた信仰を、内向きな心の問題に限定して、イエス様から遠く離れていたことに気づかされました。

早速、社会に目を向ける実践として、夜回り活動に参加させていただき、教会周辺に大勢おられた野宿を強いられていた人たちと接する機会を得ることができました。共に活動する先輩のお一人は、「苦しい状況に暮らす方々の中に、イエス様が共におられるのを感じる」と話してくださいました。これは真実だと確信しました。

苦しむ人たちと共におられるイエス様を見ようとせず、人の痛みに無関心でいた私たち夫婦にとって、キリストと新たに出会った日となったのです。