「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」
と、イエスは仰いますが、その当時、軛とは、家畜の首に道具をひっかけて、その力によって土地を耕す農具だったようです。加えて、その軛は通常、2頭の家畜の首にかけられていたとのことです。ここから、イエスが仰る「わたしの軛を負い」とは、片方は私たち1人1人が負うのですが、もう片方はイエスご自身が負ってくださるのだ、という意味だと聞きました。
どんなに先が見えなくても、不安で心がいっぱいになっていたとしても、また、休む暇もなく疲れ果てていたとしても、私たちが担っている軛は、決して一人で担っているのではないのです。
もし、日々の生活で私たちが担っている軛の片方を、いつもイエスが担っていてくださると気づくことができれば、どれだけ肩の荷が下りることでしょう。
もし、あらゆる困難や問題を抱えていても、イエスがいつもそばにいて、力づけてくださると気づくことができれば、どれだけホッと一息つけることでしょう。
共に私たちの軛を負ってくださるイエスに信頼を置いて歩む人生の歩みとは、イエスと2人3脚で歩む人生です。そして、今日もイエスは、その歩みを共にしませんかと私たち1人1人に呼びかけています。