その頃、作文の練習と称して、生徒たちがノートに、週に一度、その週の忘れがたい出来事や、悲しかったこと、楽しかったことなど、思うままに書いて提出することになっていました。何かひとことでも書いて欲しいと願いながらその生徒のノートを開くのですが、「何もかくことなし」という日が続きます。
ある日、私は考えあぐねた末、自分が高校時代にした失敗談を書いたのです。生徒の書いたこととは無関係でしたが、この後、かなり長い反応がかえってきました。こうして、二人の間には少しずつ対話がなりたつようになりました。
このとき、私は初めて気がついたのです。聖書に記してあったみことばが、この私のためであったことを。「すべてに時がある」(参:コヘレト3章)という、あのみことばこそ、私のためであったことを。
私は神様の「時」を、自分勝手に早めようとしていたのでした。神様のお考えの中で、生徒にいちばん適当な時があることが分かっていたら、私はあわてずに、辛抱強く、神様のお考えにすべてをお委せしていたでしょう。どんなことの中にも、神様だけがご存知の時がある、それは私が早めることも、遅らせることもできない。私にとってもっとも適当な「時」なのです。
このときから、私の中で神様の時を待つことの大切さが分かってきたのでした。
「みこころのままに」という祈りこそ、信頼と委ねの美しい祈りであることも。