2016年04月16日の心の糧


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いつくしみの特別聖年

越前 喜六 神父

今日の心の糧イメージ わたしは、神がいつくしみの愛をもって、わたしを愛しておられることをいつ実感したかというと、やはり受洗の直後でした。

戦後、ある地方の教会でクリスマスの深夜、ほかの数名の仲間と共に、宣教師から洗礼を受けました。終わって、人っ子一人通らない大通りを歩いて家に帰りました。深夜ですから、外はまったく静かで、雪が少し降っていました。文字通り、サイレント・ナイトでした。洗礼式の事を思い浮かべながら、10年近くも信仰し、祈っていても、教会や洗礼を拒絶していた自分が、今こうして洗礼を受け、文字通り神の子として救われたんだと思ったとき、涙があふれ出るほど、神さまから愛されているんだなあと感じました。

兄弟が地方に散っている事も、友人が多くいない事も、この町が故郷でない事も、貧乏な事も、孤独な事も、あまり健康でなかった事も、何にも気にならなくなりました。

父なる神が、わたしたちのすべてを配慮しておられます。わたしたちの罪悪のため、死んで復活された神の御子イエスは、主キリストとして、わたしたちがどんなに悪く、酷く、惨めな状態にあったとしても、必ずゆるしと救いを与えてくださいます。

受洗したその教会で2015年の3月に、わたしは御ミサを捧げる事ができました。

聖霊は神の愛と心理と生命の霊として、永遠にわたしたち信仰者の魂に現存され、はたらいておられます。これほどの愛といつくしみがどこにあるでしょうか。

最後にわたしの好きな聖書の言葉を引用します。

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたし神があなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49・15)