兄弟が地方に散っている事も、友人が多くいない事も、この町が故郷でない事も、貧乏な事も、孤独な事も、あまり健康でなかった事も、何にも気にならなくなりました。
父なる神が、わたしたちのすべてを配慮しておられます。わたしたちの罪悪のため、死んで復活された神の御子イエスは、主キリストとして、わたしたちがどんなに悪く、酷く、惨めな状態にあったとしても、必ずゆるしと救いを与えてくださいます。
受洗したその教会で2015年の3月に、わたしは御ミサを捧げる事ができました。
聖霊は神の愛と心理と生命の霊として、永遠にわたしたち信仰者の魂に現存され、はたらいておられます。これほどの愛といつくしみがどこにあるでしょうか。
最後にわたしの好きな聖書の言葉を引用します。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたし神があなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49・15)