わたしが子どもの頃、おそらくまだ3歳か4歳くらいのときのことだと思うが、父はよく晩御飯の後わたしを肩車して散歩に出かけた。父の友人がやっている近所の酒屋まで、夜風に吹かれながらタバコを買いに行くのだ。わたしを肩に乗せていったのは、自分の息子を近所に見せびらかしたかったからだろうと、後年、伯母に言われたことがある。何しろ、父は晩御飯のあと、上機嫌でわたしを肩車して外出することがよくあった。
父が行く酒屋の前に、カップ麺の自動販売機があった。晩御飯だけでは足りずにお腹を空かせているわたしに、父はときどき「お母さんには内緒だぞ」と言って、そのカップ麺を買って食べさせてくれた。そのようにして食べるカップ麺が、どれだけおいしかったことか。乾燥したエビや、さいころ型の肉のようなものが載せられたカップ麺は、わたしにとって何よりの御馳走だった。
つらいことや苦しいことがあったとき、耐えがたいほどの孤独に苛まれたとき、ふとそのカップ麺を買ってしまうのは、わたしの中でそのカップ麺が父の記憶と結びついているからかもしれない。そのカップ麺を食べるときに感じるなつかしさは、ただ味のことだけではなく、むかし父から大切にされ、愛された記憶への郷愁でもあるのだ。
なつかしさは、誰かから愛された記憶、温もりに包まれた幸せの記憶といつも結びついている。