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共にいる神

土屋 至

今日の心の糧イメージ

私は昨年(2014年)の5月に愛する妻をなくした。

愛する妻を亡くした男は次のような妻ロス症候群を示すと、同じように数年前に愛する妻を亡くした友人にいわれた。

その1は、飲むお酒の量が増えること。

その2は、涙もろくなること。ちょっとしたことですぐに涙が出てくる。

その3は、世の中の女性たちが美しく見えること。

まったくその友人のアドバイスのとおりになった。

友人のアドバイスにはなかったけれど、妻ロス症候群にもう1つあった。それはことあるごとに妻の写真に向かって声を出して語りかけるということだった。「今日こういうことがあったよ」とか、「あのときはつらかったけれど今から思うとそれもいい思い出だね」などと、ほとんど毎日のように語りかけた。妻の写真はほほえんだままで何も応えてはくれないけれど、いつも「君と暮らした42年は本当にしあわせだった。ありがとう」と涙と感謝の言葉で終わる。1年以上たった今でもそれは変わらない。

今はなき愛する妻に語りかけることによって、それでもいまも妻とともにいるという気持ちを持つことができ、その妻から涙となぐさめとともに、なにか力や励ましや勇気をもらっているような気がする。

これって「祈り」だと思った。祈りとは、自分のことをすべて知っていてそれでも愛してくれる存在に、喜びも悲しみも怒りも恨みごとも願いごともすべてを語りかけ、それに対する応えを聴くことだということをきいたことがある。

いまはなき愛する妻に語りかけることはこのような意味でまさに祈りだと思う。

このように語りかけることによって、妻と今でも共にいるという感覚を持てるように、神さまに対しても語りかけることによって、ともにいるということを実感できるのではないか。