彼はどうしてそのような決断ができたのでしょうか。それは、普段の生活の中に理由がありました。亡くなった後、長野さんが肌身離さずに持っていた遺書が出てきました。そこには、イエス・キリストに自分のすべてを捧げて生きる決意が書かれていました。神のために人生を使えるように日々祈っていたのです。ですから、突然の事故で自分を犠牲にすることが出来たのです。
私たちは、長野さんと同じような偉大な事は出来ないかもしれませんが、毎日、祈りの時間をとって「神に聞く」ことはできるでしょう。
人間はどうしても自己中心になりがちです。例えば、苦しんでいる人の前で、婚約した女性が嬉しそうに将来の話をする、貧しい人に海外旅行の思い出話をする、など愛のないふるまいをしてしまうことがあるものです。私を愛してくださる神の前に出て静かに祈るとき、そんな思いやりのなさに気づかされます。心の目がよく見えない私たちは、神さまの目を通して自分の姿を見せていただくのです。
こんな風にいつも祈り、軌道修正をしながら歩むなら、岐路に立つ時、他の人の幸せを求めるよい選びができるのではないでしょうか。