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時を待つ

高見 三明 大司教

今日の心の糧イメージ

小学生の時、"てるてるぼうず"を軒下につるしてワクワクしながら遠足を待ったことを思い出します。わたしたちは、親しい友人と久しぶりに会うというような楽しいことがあると、待ち遠しい気持ちでその時を待ちます。しかし、もし不治の病を告知されるなら、死に対する恐れや不安が先に立って、その時が来ないことを願うにちがいありません。それでも、残された時間を有意義に過ごしながら穏やかに死を待つ方々もいます。

ところで、キリスト教には殉教というのがあります。殉教とは、信仰を捨てるように強いられ、それを拒むといのちを奪われるというとき、それでも信仰を守り通すことです。つまり、いのちをかけて神と神への信仰をあかしすることを意味します。

日本には史料で確認できるだけで5千人あまりの殉教者が生まれましたが、その先鞭をつけたのが26聖人と呼ばれる人たちです。

スペイン、ポルトガル、メキシコ出身の宣教師と修道者が六名、日本人修道士と信徒が20名、その中には12歳を含む3人の子どももいました。彼らは、"邪法"と断定されたキリスト教を信じていたため、1597年1月3日、京都で市中引き回しの後、長崎へ連行されました。彼らは、長崎で処刑されることを知りつつ、その時に向かって歩いたのです。それはおよそ900キロの道のり、1ヶ月の旅でした。

その間、彼らは、町や村や街道で人々のあざけりや罵声をあびました。しかし、彼らの態度は、確固たる信仰のゆえに堂々としており、しかもキリストをあかしできる喜びと神の慰めゆえに穏やかでした。十字架の上ではりつけにされる、その時を待つ彼らの心は、不思議にも平和と喜びで満たされていたのです。それは多くの人々の心を揺り動かしました。