そして、思った。この土地には信仰の先輩たちの祈りや思いが浸み込んでいる、と。今はイスラム教の国ではあるが、その昔、同じキリスト教の信仰を持っていた多くの先輩たちがいて、日に日にキリスト教の祈りと歌で神さまに賛美と感謝をささげていたのではないか、と。
それから巡礼地を巡るたびに、その土地に浸み込んでいる信仰の先輩たちの祈りや思いに思いをはせることになった。
教会は2000年の間、信仰の遺産を伝え続けてきた。それは、聖書の写本や彫刻、教会堂といった形に残るものだけでなく、歌や祈りの形でも伝え続けた。『祈りの法は信仰の法』という原則があるが、古来より信仰の先輩たちが祈り続けてきた祈りの中にも、私たちが信じていること、信仰の核となる事柄が確かにちりばめられている、と私は理解している。
言い換えると信仰とは、「私」が信じることではあるが、信仰の先輩たちの思いや確信に支えられ、時と場所を越えて先輩たちに倣って、神さまに祈り、人々に奉仕することではないか、と私は思っている。
今日も全世界の教会では、信仰の先輩たちに倣って祈りが捧げられている。