「それでこそ母親たいね。自分の分を我子に与える。それが愛情っちいうもんたいね」と父母はいっていた。
ここで突然、猫の話になって申し訳ないが、ノラ猫の我子に対する愛情は涙なしには見られない。食べ物をやっても、母猫は食べないで、まず子どもに食べさせ、残った分を自分が食べるのである。
また父母の話に戻るが、父母は戦中戦後の食糧難の時代に、食べ物を隠すことなく、誰彼に惜し気なくふるまった。
戦時中、我家の裏に疎開していたおばちゃんは現在93歳であるが、年に数回、私たちきょうだいに梨やみかんなどの宅配便が届く。それは私の父母が戦時中、赤の他人のおばちゃん一家に何ひとつ隠し事をせず、食べ物を分けたことに対する感謝だというのである。
ひるがえって自分のことを考える。もし、将来、食糧難になった時、自分の家にある食糧を惜し気もなく分ける事ができるだろうかと。血縁ならともかく、赤の他人に対し、そう出来るだろうかと。
極限時に自分の家にある食べ物を分け与えることが出来て、初めてカトリック信者を名のれると思うので、今からそういうことが出来るように神さまにお祈りしたい。愛の実践のお恵みをいただきたいと・・・。