母は母乳のたっぷり出る人であったらしく、母乳の出にくい人の子、あるいはお産のあと亡くなった人の子にも我子と同様に母乳を飲ませていたらしい。らしいというのは、私がまだ生まれる前の話だからである。母は自分が抱いて母乳を飲ませた子をよく覚えていて、「あん子どんはさ、あがどんの乳兄弟ぞ。将来もずっと実の兄弟のごと仲良くせんばね」と、いいいいしていた。
現在なら栄養豊富なミルクがあり、よその人の母乳などもらわなくても、子どもを育てることが出来るが、戦中、戦後の食糧難の時代には、分けへだてなく母乳を分けあって飲んで育ったのである。
母は「御子さまが馬小屋の中でお生まれになった時、マリアさまはお乳が出たじゃろうか。疲れとったけん、出んじゃったとじゃなかじゃろうか」と2000年前の聖母子に思いをはせて、しばし縫い物の手を休めることがあった。
「もし出らんじゃったら、御子さまはお腹ばすかせて泣いたかもしれんね。つんだひか。(可哀相)」
母が面倒くさがらずにどの子も御子さまと思ってお乳を飲ませたのは、母特有の想像力と慈愛の精神からであったろう。
母のたぐいまれな単純さは気高い御子さまと五島の子どもを重ねるのであった。