しかし、「人間は、"死への存在"である」と定義したドイツの偉大な哲学者・ハイデッカーが、「永遠の存在である神」の実在を信じるキリスト者であることを知り、信仰に生きる人間性の深さに気付き、教会の門を叩きました。
そんな私の「信仰」が、生涯を神父として生きる決断をさせたのですが、どうも情的な「信心業」は好きになれなかったのです。
その不信心な私が、ドイツ人の院長に促され、ピレーネ山脈の麓のルルドを訪れました。
その夜、何千人もの巡礼者達の行列が出発する直前、「これは、マリア行列ではありません。聖堂へ向かう聖体行列です」というスピーカーの声が流れました。ルルドのマリアへの信心業は、神へ向かう一本の道だったのです。
ルルドの洞窟に立つマリア像の腕にかけられているロザリオは、聖母の15玄義を瞑想しつつ、その珠を数えながら、"アヴェ・マリアの祈り"を10回ずつ唱える「薔薇の花輪」。
そのアヴェ・マリアの中に、「罪人である私たちのために、今も死を迎えるときもお祈り下さい」という言葉があります。私が嫌いだった信心業の奥底には、時間的死を超えた永遠の命への「信仰」が秘められていたのです。
あのドイツ人の院長の狙い通り、ルルドにおけるロザリオとの再会は、私が信心業を見直す機会になったのでした。