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私とロザリオ

福田 勤 神父

今日の心の糧イメージ

 ヨーロッパ留学6年目の最後の年、「どうも、お前は信心業が嫌いなようだから、帰国する前にルルド巡礼に行って来い。旅費はすべてフルダ管区が持つから」と、ドイツのフランシスコ会の修道院長から言われました。

 9歳の年の春と秋に両親を亡くした私は、「人は何時かは死ぬのだ」という思いに包まれ、その後、生意気にもニヒリストになりました。

 しかし、「人間は、"死への存在"である」と定義したドイツの偉大な哲学者・ハイデッカーが、「永遠の存在である神」の実在を信じるキリスト者であることを知り、信仰に生きる人間性の深さに気付き、教会の門を叩きました。

 そんな私の「信仰」が、生涯を神父として生きる決断をさせたのですが、どうも情的な「信心業」は好きになれなかったのです。

 その不信心な私が、ドイツ人の院長に促され、ピレーネ山脈の麓のルルドを訪れました。

 その夜、何千人もの巡礼者達の行列が出発する直前、「これは、マリア行列ではありません。聖堂へ向かう聖体行列です」というスピーカーの声が流れました。ルルドのマリアへの信心業は、神へ向かう一本の道だったのです。

 ルルドの洞窟に立つマリア像の腕にかけられているロザリオは、聖母の15玄義を瞑想しつつ、その珠を数えながら、"アヴェ・マリアの祈り"を10回ずつ唱える「薔薇の花輪」。

 そのアヴェ・マリアの中に、「罪人である私たちのために、今も死を迎えるときもお祈り下さい」という言葉があります。私が嫌いだった信心業の奥底には、時間的死を超えた永遠の命への「信仰」が秘められていたのです。

 あのドイツ人の院長の狙い通り、ルルドにおけるロザリオとの再会は、私が信心業を見直す機会になったのでした。