

私が通っている理容室では、「赤井さん、こんにちは」「赤井さん、よろしくお願いします」というように、挨拶や声がけの前に、こちらの名前を呼んでくれます。担当の理容師さんだけではなく、スタッフさん全員がそのように対応してくださるのです。
日本には、「言葉にしなくても分かるだろう」という文化があります。まして、相手の名前をはっきり口に出すなんて、慣れていない人の方が多いと思います。そこには照れくささもあるのかもしれません。
しかし、はっきり名前を口にすることには大きな力があります。ちょっとしたことのようですが、この人は自分と向き合ってくれている、自分は尊重してもらえていると感じ、その人と過ごす
イエスもまた、相手の名前を呼ぶことによって愛を示す方でした。
友人のマルタが、イエスをもてなす手伝いをしない妹のマリアへの不平を訴えてきた時は、「マルタ、マルタ」と優しく名前を呼んでからマルタを諭しました。(参 ルカ10・41)
復活して最初にマグダラのマリアの前に現れた時も、悲しみに沈むマリアに「マリア」と呼びかけ、ご自分が復活したイエスであることを示しました。(参 ヨハネ20・16)
そして、シモン・ペトロに三度「私を愛しているか」と問いかけた時も、三回とも「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と語りかけたのです。(参 ヨハネ21・15~19)
名前はただの記号ではありません。
名前はその人の人格、その人の存在そのものと結びついています。名前を呼ぶということは、その人の存在を認めるということです。その人の名前には、その人の魂の重さ、存在の尊さが宿っています。
いつくしみを込めて、出会う人の名前を声に出したいものです。