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言葉の重み

シスター 萩原 久美子

今日の心の糧イメージ

 長崎に本部を置く女子修道会に所属している私は、中学・高校、そして修練期を長崎で過ごしました。

 そのため、3月17日に行われる「長崎信徒発見のミサ」には毎年のように参列したものでした。年に一度、大浦天主堂に赴き、信徒発見のミサに参列することは、信仰の自由が保障されている現代に生きる私にとって、〝ワレラノムネ アナタノ ムネト オナジ〟と信仰を告白した潜伏キリシタンたちの言葉の重みを心に刻みなおし、自分の信仰生活を振り返る時でもありました。

 時代はまだ禁教下、潜伏キリシタンたちの信仰告白は、まさにいのちを賭けた言葉だったのだろうと思います。彼らの言葉を耳にしたプチジャン神父様は、彼らの信仰告白を証明する証書も、誓いの言葉も求めず、聖母子像の前での彼らの敬虔な言動から、それが真実であることを見て取りました。
 長い迫害時代を司祭不在の中、親から子へと信仰を伝え、必ず司祭が来て、信仰を公(おおやけ)にできる日が来るということをひたすら信じ、待ち望んだ彼らの思い。その思いが、あの信仰告白の言葉に重ねられた時、その言葉自体が真実の証しになったのでしょう。

 生成AIの技術的進化が目覚ましい今日(こんにち)、AIは短時間で的確な美しい文章を作成してくれます。でも、その言葉には、あの潜伏キリシタンたちが発したような言葉の重みが感じられないのはなぜでしょうか。

 潜伏キリシタンたちが発した言葉には、その言葉を生み出すまでの苦楽、迷い、弱さ、そして、その一言に賭けた思いが宿っていたのだろうと思います。

 すべてが効率化の名のもとにデジタル化されていく現代社会にあって、その人自身の思いがつまった言葉を大事にしたいものだと思います。