

私は、アボカドが食べられません。アメリカに留学したときに何度も好きになろうとがんばってみたのですが、いまだに好きになれていません。それでも食事は楽しいし、アボカドなしで、とサラダを頼んでも、お店の人に怒られたことはありません。
知人は、白いご飯が食べられないため、必ずふりかけをかけたり炊き込みご飯にしたりします。会食の席でもさりげなくご飯に味付けをしています。
こんな小さなことでも、日々生きていると意外に不便だったり、驚かれたりするものではないでしょうか。そして多様性とは、こういうことが積み重なり、大きくなり、社会規模で対応が必要になるということなのでしょう。
多様性と聞くと、不利な立場の人たちに寄り添うとか、異質な文化を受け入れる、あるいは自分自身がマイノリティなので受け入れてもらえるよう努力するなど、受け入れるか受け入れてもらうかの一方向の印象が強いかもしれません。
でも考えてみると、アボカドや白いご飯が食べられないくらいのマイノリティ要素は、誰にでもあると思うのです。そこを配慮してもらえば、既に多様性が実現したというわけです。
社会的弱者のように制度的な対応が必要なことだけでなく、日常のレベルで考えれば、マジョリティとして受け入れる側の人たちにも何かしら、多様性の配慮が必要なことがあるものではないでしょうか。
多様性は、あるときは受け入れ、あるときは受け入れてもらうという二方向のもので、その立場は交流電源のプラスとマイナスのように、常に入れ替わっているのではないかと思うのです。
そう感じられるとき、私たちは謙虚な気持ちになり、互いに仕え合うことができるのかもしれません。