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「試される」―試練、それとも誘惑?―

竹内 修一 神父

今日の心の糧イメージ

 私たちは、自分の意志とは関係なく、さまざまな苦難や試練に出会います。例えば、自然災害や人災、病気あるいは人間関係の諸問題など。人間の自然的感情からすれば、できればそれらは避けたい、と思います。

 「試される」――この言葉は、パウロの次の言葉を思い起こさせます。
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント 10・13)

 振り返ってみれば、思い当たるふしもあります。何らかの形でそれを乗り越えたからこそ、今の自分があるのでしょう。神は、(なぜか)私たちから試練を取り除かれません。そのかわりに、逃れる道(恵み?)を与えてくださるようです。

 「試練」(ギリシャ語のペイラスモス)という言葉は、「誘惑」とも翻訳されます。自分が今相対している困難は、変わりません。しかし、それを「試練」として捉えるか、あるいは「誘惑」として捉えるか、それによってその後の自分のあり方は変わってきます。もしそれを「試練」(チャレンジ)として捉えるなら、その先に新しい自分を観ることも可能です。しかし「誘惑」として捉えるならば、それは、神の思いから離れる誘惑となります。

 かつての「主の祈り」では、「我らを試みに引き給わざれ」と唱えました。しかし現在は、「わたしたちを誘惑におちいらせず」と唱えます。

 いずれにしても、私たちが出会う試練は、神が、私たちを自分の子として愛しているからこそ、与えられるようです。(参 ヘブライ12・1-13)