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古橋 昌尚

今日の心の糧イメージ

 遠藤周作 著の『沈黙』で、キチジローは司祭ロドリゴに訴えます。
 「この俺は転び者だとも。だとて一昔前に(うま)れあわせていたならば、()かあ切支丹(きりしたん)としてハライソに参ったかも知れん。」

 17世紀前半、島原の乱を経た頃の日本を背景に、政治に翻弄される切支丹の苦難と苦しみを、これほど生々しく物語に描いた文学はありません。

 遠藤が本作を刊行したとき、物議を醸します。西欧から禁教の日本に潜伏した宣教師が踏絵を踏む、しかも「踏むがいい」というキリストの声を聴いたというところが争点となりました。
 著者自身も(おおやけ)に非難をうけることもあったようです。

 他方で、多くの信徒、読者は、もし自分がこの時代に生きていたら、この状況にどう向きあっただろうと自問し、これを自らの物語として読みました。

 米国のカルメル会修道女は、登場人物の信仰に心をあわせて苦しみながら読み、「これは祈りの本です」と、英訳者のジョンストン神父に書き送っています。
 教会の指導者や聖職者たちも同じ問いを受けて、信仰者として信徒と共に考え悩んだこともあったようです。

 この作品は信仰の有無を超えて、神を信ずることの意味を問い直し、人々の心に強く迫ります。

 遠藤は著作『死海のほとり』で、牧師に「信仰とはね、あんた、素直に謙虚に神の言葉を受け入れることですよ」と諭す言葉を語らせています。
 ところが、遠藤自身はその信仰論には同意できかねるようで、自らも迷っては問い直し、悩みながらも最期まで信仰を貫くことになります。

 こうした人間の普遍的な信仰の問いに真剣に向きあったゆえに、当時非難された『沈黙』は60年のときを経て、今や30以上の言語に翻訳され、世界文学としての地位を得るまでに至ったのです。