

母方の祖母は台湾中部の田舎町で生まれた。四つになるかならないかの歳で父親と死別し、母と生まれたばかりの弟と3人で、極貧の生活を送っていた。
当時、台湾は日本統治下にあって、児童の初等教育が義務づけられていたが、授業の初日に心を踊らせながら登校したものの、2時間目が終わらないうちに母親に無理やり連れ戻されてしまった。日雇いに出る母の代わりに、家事や弟の子守をしなければならないからだった。
「私の学歴は2時間しかない」と、生涯悔やんだ祖母であった。
その後、祖母は実にいろいろな仕事を経験したそうだ。恥ずかしさで泣きながら物売りをしたこともあれば、日本人の家に奉公に出されることもあった。
一家の経済の重荷をひ弱な体で担ってきたのだ。
結婚後も苦しい日々が続き、結核で十数年間病床に伏したこともあった。また、共働きの娘夫婦のかわりに、孫娘たちの世話を一手に引き受けていた。
その頃から、祖母は私たちを喜ばそうと、独学で毛糸の人形を編み始めた。祖母の人形はどれも素朴で、愛おしくて、あたたかい。苦しみを経験したからこそ生み出せた深い味わいだと私は思う。
晩年、祖母はパーキンソン病を患い、手足の震えで茶碗をいくつも割ってしまい、その都度落胆するのだったが、私たちのために人形を編んでいる時だけ、手がピタリと止まるのだった。パーキンソン病の専門家も首を傾げて不思議がっていたらしい。
生涯、愛の担い手として「誰かのため」に生きた祖母は、亡くなる直前に洗礼の恵みを受けて、86歳で天国へ旅立った。
その人生は、まるで彼女の手で編んで私達に残してくれた人形のように、素朴で、愛おしくて、あたたかい。